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No.207  森本 稀哲(もりもと ひちょり)

北海道日本ハムファイターズ
外野手

荒川区で育ち、そして 荒川区で野球に出会った

いつも走り回っていたやんちゃな少年時代 そこから野球人生がスタートした

プロ野球の北海道日本ハムファイターズの「背番号1」、森本稀哲(ひちょり)選手。昨今のファイターズの大躍進の原動力となったことはもちろん、数々のユニークなパフォーマンスで野球人気を盛り上げ続けているあの名物選手は、荒川区で育ち、そして荒川区で野球に出会いました。
森本選手が野球を始めたのは、小学校4年生の頃。もともとは野球ではなく、サッカーのクラブチームに所属していました。しかし、サッカーチームではなぜかなかなか友達ができず、さみしい思いをしていたときに、同じ小学校の友達に野球チームに誘われました。このちょっとしたきっかけから、森本選手の野球人生はスタートしたのです。そんな荒川区での少年時代を、森本選手はこう振り返ります。
「中学生のときに連合陸上で走って飛んだこともいい思い出ですね。真面目にサッカーもやったし、野球もやったし、良い友達にめぐり合えました。本当に、やんちゃな少年でしたね。いつも走り回っていて、1日に20歩ぐらいしか歩いてなかったかも(笑)」
その後、高校は野球の名門である帝京高校に進学。荒川区の実家から通い、野球に熱中する毎日を送りました。1998年には主将としてチームを引っ張り、夏の甲子園(第80回全国大会)に出場。惜しくも3回戦で敗退してしまいましたが、その3回戦ではバックスクリーンへホームランを放つなど、大活躍しました。そうした実績が目にとまり、森本選手は1998年秋のドラフトでファイターズに指名されてプロ野球選手となるわけですが、それまでプロ野球選手になろうとはまったく思っていなかったそうです。
「当時(高校生)の自分の中では甲子園出場が最大目標だったので、ドラフトにかかるかもしれないと聞いたときは、とても驚きました。そしてドラフトで指名されたときは、『本当に自分がプロ野球選手になっちゃうの?』という気持ちでした」
ファイターズ入団後は、伸び悩んだ時期もありましたが、「1軍の試合は、大勢のファンの声援の中。自分もその中で野球をやりたい!」と強く思いながら懸命に練習に励んで力を付け、やがて1番・レフトに定着。2006年にはパ・リーグの最多得点を記録し、ゴールデングラブ賞を受賞しました。2007年には名プレーヤー・新庄選手から背番号1とセンターのポジションを受け継ぎ、不動の1番打者として全イニングに出場。さらにファイターズが44年ぶりの日本一に輝くなど、2007年は森本選手もチームも大躍進の年となりました。
しかし、森本選手は2008年と2009年、2年連続でデッドボールによる骨折に見舞われます。この相次ぐ不運にそれまで突っ走ってきた森本選手は、骨折を「良い休み」と切り替え、2009年には43犠打(送りバントなど自らを犠牲にしてチームに貢献する打撃)でパ・リーグ最多犠打のタイトルを獲得し、ファイターズのリーグ優勝に貢献しました。また2009年は、国内移籍が可能となるFA権を取得したにもかかわらず、行使せずにファイターズに残りました。「ファイターズのチームメイトは、自分にとって家族のような存在です。まわりの人から見える以上に、選手自身がいろいろなことを考え、動いています。そうしたところが、ファイターズのとても優れているところだと思います」とチームへの熱い想いを語ってくれました。

荒川区の子どもたちへ伝えたい 「頑張ればプロ野球選手になれる!」

森本選手は、プロ野球を通じて、さまざまなメッセージを私たちに投げかけています。
たとえば、試合の登場時やヒーローインタビュー、各イベントなどで見せるとてもユニークなパフォーマンス。これは「野球に興味が無い人でも、パフォーマンスをすることで野球に興味を持ってもらえるきっかけになれば・・・」とのメッセージです。
頭をスキンヘッドにしているのは、「小学校1年生ぐらいの時に、毛が抜けてしまい、生えて来なくなる病気にかかりました。今ではその病気は治ったのですが、同じ病気で悩んでいる人たちの励みになるように」という〝勇気〟のエールです。
2007年から始めた『ひちょりシート』(収益の50%を北海道・支笏湖畔の緑を蘇らせる植林活動に寄付するファイターズエコプロジェクトの一環)は、ファイターズの本拠地・北海道への恩返しのメッセージ。「北海道のファンの方々からはいつも大きな声援をいただいており、とても感謝しています。そんな北海道に恩返しをしたくて、ファンの方々と一緒に自然豊かな北海道の緑を守れたらいいな、と思ったのがきっかけです」
そして、森本選手は、東京ドームでの公式戦に荒川区の少年野球チームを招待しています。これには「荒川区のチームで野球を始め、いろいろな人との出会いがありました。地元意識は強く、本当に感謝しています。今、少年野球をやっている子どもたちとは年齢は離れていますが、自分が荒川区のチームからプロ野球選手になったということを、今の子どもたちにも知ってほしい。そして、頑張ればプロ野球選手になれるんだ、ということを伝えたい」という、地元への愛情が込められています。
荒川区への思いは、森本選手のパワーの源になっています。森本選手がこれからももっともっと活躍できるように、私たちもエールを送りましょう。
頑張れ!ひちょり!