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No.187  林 忠明(はやし ただあき)

戦争で九死に一生を得、

日本で初めて、世界選手権に優勝


にこやかに偉大な業績を話す林さん。大変な時代を振り返るときも、笑顔を絶やしません

「私が注目されたのは、関東卓球選手権で当時の名選手、早大の今選手を破って優勝してからです。その時18歳でしたから、今でいえば福原愛ちゃんみたいな存在だったかもしれません」と、穏やかな笑顔で話すのは、東日暮里在住の林忠明さん(86歳)だ。
林さんが卓球を始めたのは12歳の時。野球が好きだったが職場の卓球大会で勝ち進み、卓球部へ誘われた。メキメキと頭角を現し、19歳(昭和15年)の時には汎太平洋卓球大会の日本代表に選ばれ、初めての国際試合で準決勝まで勝ち進むほどの強豪選手に成長していた。

復員してから世界チャンピオンに


選手時代の練習風景。攻めることで、世界タイトルを獲得

しかし日本は戦争に突入。林さんも軍隊生活を余儀なくされた。歩兵部隊の通信隊幹部として、通信作戦の指揮を執り、満州から南方へ転戦するなど、「死」と隣り合わせの毎日を送った。
「卓球をやりたいと思う余裕はなかったですよ。毎日一緒にいる戦友たちが亡くなっていく。私も生きて帰れるとは思いませんでした」と、林さん。通信隊の半分が戦死するという悲惨な体験をしながらも、復員した。
「帰ってきたら、幸い昔の仲間が健在でね。職場に戻ってまた卓球生活が始まりました」と感慨深げに語る林さんは、26歳の時(昭和21年)、日本軟式選手権、男子シングルス優勝。完全に復活を果たした。30歳(昭和25年)で日本選手権のシングルスで優勝。32歳(昭和27年)で、インド・ポンペイ(現在のムンパイ)で開催された世界選手権に出場した。
「ダブルスで優勝、世界タイトルを取ったのです。試合は、精神的な重圧で苦しかったですね。でもその時ふと、亡くなった戦友の顔が浮かびましたよ」と、林さん。
外貨節約で大変な時代だった。インド行きの費用の半分の20万円は自己負担だった。外国の選手がどんな技術を持っているかなど、細かい情報もなかった。「日本の選手は攻撃型で外国は守備型。情報がない分、唯々闘志で頑張り通した。日本国内でも、現地で応援してくれた大使館員や商社の駐在員の人々も、まさか優勝するとは全く思ってもいなかったでしょう」と、林さんは当時を振り返った。

現在も当時の強豪選手と交流

昭和38年、林さんは北区から東日暮里に移り住み、現在は卓球用品の会社を経営している。以前は現役の選手の指導や、区の依頼で子どもたちに卓球を教えていた。卓球用品を学校に寄付するなど、荒川区の卓球レベルの向上に貢献している。
また、各国の、かつての代表選手が作る「スエースリングクラブ」の一員として、今でも元一流選手との交流を続けている。「名球界みたいな組織ですね」と、楽しそうな林さん。
そんな林さんの健康の秘訣は「自然体でいること」だという。「4年ほど前からパソコンを始め、デジカメで撮影した写真をパソコンに取り込むのが趣味になっています」と、新し物好きの一面も。
今の日本の卓球界については「福原愛ちゃんが大活躍して、卓球の人気は上昇しました。でもちょっとちやほやされすぎかなと思う。経済的に豊かになると、ハングリー精神がなくなってしまうのではないかな」
林さんが現役だった頃は、日本の卓球界は今の"硬式"とルールもボールも違う"軟式"が主流だった。その両方を経験した大選手の言葉には重みがある。



世界選手権を戦った選手たちと祝勝会で(別冊一億人の昭和史・昭和スポーツ史/毎日新聞社)