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No.176  横山 麻沙(よこやままさ)

現在、ご自宅を建て替え中。仮住まいのアトリエにて。

見る人をあたたかく包み込むやさしさと、若々しい感性があふれる作品

顔彩、水彩、パステル、クレヨン、鉛筆など、さまざまな画材を使い、自分の描きたいものを自由に描く。横山麻沙さんの作品からは、ご自身の持つ、野に咲く花のように素朴で美しく、春風のようにあたたかく、おおらかな心が伝わってくる。今年75歳とは思えない若々しい感性は、自由に描くことを楽しむことから自然に泉のごとく湧き出てくるのだろう。



2004年国際扇面画展へ出品した作品

一流の師から、さまざまなジャンルの絵画を学ぶ

横山さんは昭和5年入谷に生まれた。生家は商家で、江戸時代は簪(かんざし)などをつくる飾り屋だった。明治の初め、祖父は当時の最先端技術であった電気を大学で学び信号機のパテントを取得。父も電気工学を学んだ後、飾り屋は日本初の電球工場に変わった。
「祖父が入谷から町屋へ工場を移したので、私も4歳の頃、今の京成町屋駅前に新しく建てた家に引っ越して来たの。小さな時から体が弱かったこともあって、絵を描くことが好きだった」という横山さんは、お琴、お茶、お花とお稽古ごとはなんでも人並み以上に上達したが「やはり絵が描きたい」と旧制女学校に通いながら、洋画家寺内萬治郎に師事し、光風会研究所で本格的に絵を学び始めた。その後は文化学院美術科に進学。モダンアートの村井正誠、日本画家堀田秀叢、水墨画家河口楽土に教えを乞い、さまざまなジャンルの絵を学んでいくことになる。
「光風会に通うようになったのは、15歳の時ですね。父は画家になっても生活していけないだろうと反対しましたけど、美術館で光風会の絵を見て感激して、自分でもこんな絵を描いてみたいと(笑い)。まだ子どもでしたからね、向こう見ずにも押し掛けたようなものですが、(絵を)習いたいなら通ってごらんということになって。
村井正誠先生は文化学院の講師をしていらした。堀田秀叢先生も展覧会で絵を見てどうしても会いたいと、ひとりで住所を調べて訪ねていって、弟子にしてもらったの。河口楽土先生との出会いは、結婚後しばらく絵を描かなかった時期があったんですが、もう一度きちんとやり直したいと、先生の講習会に出かけたのがきっかけで知り合いました。私は運がいいのよ。いずれも一流の先生ばかりに恵まれて幸せだと思っています」と笑うが、「絵を描きたい」という強い意志こそが、彼女の画家としての才能を花開かせたといっても過言ではない。


「はがき絵講座」で講師をつとめるお手本の数々とガラス絵(中央)などの作品

常に、もっとおもしろいもの、もっと新しいものを追求

和洋、さまざなジャンルの絵を学ぶことでその手法に迷い、一時期はまったく描けなくなってしまった時期もあったという横山さんだが「私は元来、楽天家なのね。束縛されるのも嫌いだし、結局は自分が描きたいと思うものを自由に描けばいいと思うようになったの。描きたいものにあわせて画材も自由に組み合わせるの。例えば日本画の中にパステルで色付けしてみたり。ハガキ絵のような小さなものを描くのも楽しいし、20号から30号くらいの作品をじっくりと仕上げた時はとても晴れ晴れとした気分になるものよ。難しく考える前に、大切なのは、今という時間を一生懸命に生きて、もっとおもしろいもの、もっと新しいものを描きたいという気持ちを持ち続けること」と言う。
年に4~5回のペースで展覧会に出品。自宅や地方の教室でお弟子さんに絵を教える。扇面芸術を始めたのは今から20年ほど前。展覧会で興味を持ち、描き始めたが、1989年には第10回国際扇面画展で文部大臣奨励賞を受賞し、国内各地をはじめ、パリ、バース、モナコ、ニューヨークなどでも次々と作品を発表。現在は日本扇面芸術協会の理事もつとめている。