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No.162  村松 孝一(むらまつ たかかず)

全国ただ一社
アイデア連発

リヤカーを町で見かけなくなって、どのくらい経つでしょうか。年配の人にはおなじみの軽運搬車ですが、最近はリヤカーといっても「何、それ?」と首をかしげる若者が増えているようです。最盛期には年間十数万台生産されていたのに、現在は一千台程度といいますから無理もありません。

そうした中で、全国でただ一社、リヤカーを作り続け、「新車」を開発することでリヤカーに新たな生命を吹き込もうと情熱を燃やしている人がいます。南千住二丁目で父から受け継いだ町工場を経営する村松孝一さん(54)です。

リヤカーの起源ははっきりしませんが、村松さんの調べでは、大正十年ごろ秋葉原の青果市場近くで自転車部品を作っていた中村銀輪社の中村銀造という人が、市場の運搬用に考案したのが最初ではないかといいます。

村松さんの父清さんも、戦前、秋葉原でリヤカーの製造技術を身につけ、昭和二十六年に現在の場所に工場を建てました。「当時、リヤカーは運搬の主役としてひっぱりだこだったと聞いています。中村銀輪社の二代目社長、中村和雄氏の話だと〈朝空っぽだったタンスが夕方にはお金であふれ、引き出しを閉められないほど売れた〉そうです」と村松さん。

そんな〈黄金伝説〉にも転機が訪れます。昭和三十年代後半に軽トラックが登場し、リヤカーを主役の座から引きずりおろしたのです。

この〈逆風〉が一層強まる昭和四十五年、村松さんは父の工場に入ります。しかも、火災に遭った工場の再建も託されてのことでした。

村松さんは「人の歩く速度を見つめ直す」ことから「物を運ぶことにどう貢献できるか」を考え直しました。ホテルやレストラン向けのワゴンなどの新分野を開拓しながら「リヤカーの復権」を考え始めたといいます。

リヤカー本来の小回りのきく簡便性と省エネ性がもう一度見直されるはずだという想いを強く抱くようになったのです。

リヤカーは、トラックの入れない工事現場での運搬用などに今も根強い需要があり、阪神淡路大震災の経験から、官公庁にも防災用として注目されています。荒川区でも購入していますが、村松さんは収蔵にスペースを取らないよう、軽量で折り畳みのできるアルミ合金製のカートを開発しました。

村松さんのアイデアは、これだけにとどまりません。ちょっとした荷物をだれでも手軽に運べるよう、これまでのリヤカーの荷台を三分の一、四分の一に縮小した「タウンカートきゃら」は、真っ赤に塗られた車体がおしゃれな感じを演出しています。さらに介護用カート「あしすと君」の開発など新しい需要の掘り起こしに意欲的に取り組んでいます。

一九八八年には国連機関の依頼を受け、タンザニアに技術指導に行き、アフリカ初の国産リヤカーを完成させました。「アフリカの大地に私たちの技術が根づいてほしい」と、外国にも目を向ける村松さんです。

文 歌代 俊哉
カメラ・岡田 元章