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No.158  森下 正雄(もりした まさお)

「黄金バット」と共に50年
がんで声を失いながら現役復帰

悪漢どもに囲まれて絶体絶命の大ピンチ。だが、そのとき――。高らかな笑い声とともに、必ずやヒーローが駆けつけます。

「ナゾー! 黄金バットがマサエさんを助けに来たゾ。いでや、黄金丸の切れ味、とくと見るがよい!」

拍子木や太鼓の響きが紙芝居のスタートの合図でした。

薄いミルクせんべいや水飴などの駄菓子は、どれもおいしくて、古びた木枠の「舞台」で繰り広げられる勧善懲悪の物語に、子どもたちはじっと見入っていました。

街角から空き地や路地が消え、子どもたちが家の中に閉じこもるようになると、紙芝居はしだいに姿を消していきます。

森下さんは現在活動し続けている、数少ない紙芝居屋さんの一人です。

1923年、荒川区日暮里で生まれました。父親も紙芝居の名人で「この世界でただ一人叙勲を受け、95歳まで続けた」人です。

戦前、江崎グリコに入社。中国の支店に配属されましたが、44年に現地で召集され、終戦を迎えました。シベリアでの強制労働も体験しました。紙芝居を本格的に始めたのは、終戦の翌年からです。

紙芝居生活は、朝7時の起床からスタートします。

午前中にお菓子の仕入れや仕込みをします。森下さんが工夫して作ったオリジナルのお菓子が子どもたちに喜ばれたといいます。

学校が終わる午後1時半頃に街角に出ます。夏場なら一日で五か所。日曜日は稼ぎ時でした。

「荒川区は紙芝居発祥の地といわれ、当時、二百人以上の業者がいて、子どもたちがいるところでは必ず紙芝居が演じられていました。まさに紙芝居の黄金時代でした」

90年春。森下さんは喉に異常を感じました。声がかすれて出ません。

病院の診断は喉頭がん。一時、声が出るまで回復したものの、医師からは声帯の摘出を勧められました。紙芝居は声が命です。声帯を取ったら、その紙芝居ができなくなる――。森下さんは苦しみ抜いた末、家族の説得もあって、手術を受けることにしました。

そんな森下さんが紙芝居の世界に戻ってきました。

懸命にリハビリに取り組んでいた時、四国の丸亀から、贈り主不明のカセットテープが森下さんの元に届けられたのです。そこには、黄金バットなど、“森下節”の名調子六話が録音されていました。

森下さんは「感激で涙が止まらなかった」といいます。テープの声に合わせて口を動かす訓練をすれば、「現役」を続けられる道が開けたのです。

森下さんは今、月に二回ほど、商店街など各種のイベントに招かれて紙芝居を披露しています。同時に「食道発声法」のリハビリにも励み“第二の声”での実演も目指しています。

「子どもたちに夢と思い出を残したい」「同じ病気の方の励みになれれば」と頑張る森下さんの紙芝居人生はまだまだ続きます。
読売新聞記者・臼井 理浩