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No.133  松坂 妃呂子(まつざか ひろこ)

”ジャズの教科書”創刊、100号
「サッチモの音楽が似合う日暮里」

ゴージャスな服装に厚化粧、真っ赤な爪先から絶えず落ちるタバコの灰、しゃがれた声からこぼれる横文字の洪水・・・・・・肩書からこんなイメージを連想してしまいました。

数多くの取材の中で、これほどのギャップも珍しいことです。しっとりと落ち着いたたたずまいに温かく柔らかな口調。

「最近、仏様の木彫りを習い始めました」

こんな言葉も出るので面くらってしまいます。

「体が弱く、30歳までに5回も手術をしました。出版事業という大バクチをここまで続けられたのも、たらたらと生きてきたからでしょう」

苦笑する松坂さん。この人こそ、あの”ジャズの教科書”といわれる「ジャズ批評」の創刊者です。配送が遅れると、国会図書館から催促の電話がくるというエピソードもあるほどの専門誌です。昭和42年の創刊号から、平成11年7月号で100号を迎えました。

松坂さんの出身地は福島県川俣町。絹織物で有名だった山紫水明の地です。民謡が似合いそうな土地で、どうしてジャズだったのでしょうか。

「父が絹の仲買人をしていたこともあって、家族の話題はアメリカ貿易のことが多かったです。貿易商に就職した兄の影響もありましたね。でも本当は私、絵描きになりたかったのです」

高校1年から始まった肉身の病気や死が5年間続いたあと、松坂さんは、母校の美術教師と結婚し上京しました。

「新婚生活は高田馬場にある北向きの4畳半一間のアパート。まさに”神田川”の世界、1年後に病気をしてしまいました」

昭和28年のことです。7年後に長女ゆう子さんが生まれましたが、健康上の理由から離婚します。そして松坂さんの第二の人生が始まりました。昭和40年、銀座にジャズ喫茶「オレオ」を開店したのです。ジャズ好きだったとはいえ、まったくの破天荒でした。

ビルの所有会社が傾きかけ、保証金が格安だったという幸運さもありましたが・・・。

「60年安保のあと大学紛争や企業の労働争議が盛んなころ、オレオでジャズを聞いて元気をつけデモへ出かけていった人もいましたね」

60年代後半は正統派フォービートからフリージャズへの移行期。ここでの侃々諤々の議論が「ジャズ批評」の産声となりました。

「店内で私家詩集や文芸同人誌を売っていたので、ジャズの同人誌も作ろうよ、という話になりました。わずか48ページ、1500部でスタートしたのが、今では300ページを越し、1万部余りになりました。学生アルバイトの人たちに手伝ってもらいましたが、編集から営業まで何でもこなしましたね」

女性にとっては厳しい時代。しかも異色の世界であったために、苦労は絶えませんでしたが、好きな仕事で生きていけるという喜びが大きかったようです。

「税務署も同情するほどの経営状態でしたが、信用だけは失うまいと印刷所への支払いは必ずきちんとしました。部数とページ数の増加とともに印刷所も変わりました。30年間で8か所になります。」

最後に定着したのが荒川の印刷所でした。編集室、住居、倉庫も東日暮里に移し、現在3人の男性スタッフがいます。経理を担当するのはゆう子さんです。

「日暮里駅周辺はジャズの王者・サッチモの音楽が似合うような町ですね。」

マイケル・デイヴィス、デビッド・サンボーン・・・ロック系ジャズメンの活躍の影響で、松坂さんの名は若者の間でも知られるようになりました。

創刊から10年ほどは「なんかキャバレー関係の仕事だって」と郷里では理解されにくかった出版事業ですが、若い世代から注目されるようになったのです。名産・川俣羽二重のように、゛松坂ジャズ"は2000年を迎え、光沢を発しています。

読売新聞記者・中村 良平
カメラ・岡田 元章