「レスラーは天職でした」
荒川の卓球少女から世界王者に
女子プロレスラーとして世界の頂点にのぼりつめたジャガー横田さんのふるさとは、荒川区でした。尾久西小学校、荒川七中で卓球に明け暮れる少女時代を過ごしてたのです。
「荒川区? とても懐かしいですよ。あらかわ遊園なんかによく遊びに行ってましたね。今ほど施設も充実してなかったんでしょうけど、それでも楽しかったな。コギャルみたいに、原宿や渋谷に出かけるなんてことなかったんです。せいぜいが都電で飛鳥山あたりまで。人気番組だった『忍者ハットリくん』の撮影をやってて、あとでテレビを見るとホントに映ってたの、びっくりしたわ」
ワイルドにキラリと光る瞳がにわかに柔らかくなって、郷愁の断片を手繰り寄せているかのようです。
「それと、もんじゃ。卓球の練習で帰りが遅くなっても、友達ともんじゃ屋さんへ入って、ペチャクチャおしゃべりするのが楽しみだったわ。学校帰りにそ んなところに寄り道するのは禁じられてたんでしょうけど、内証でもんじゃに行っちゃうの。でも、制服に匂いが残ってて、バレちゃって親に怒られたりして (笑)」
淑徳学園に推薦入学が決まっていた卓球少女は、たまたまテレビで見かけたビューティーペアの精悍な姿に魅せられて、女子プロレスの世界へ急きょ方向転換。
「親に内証でオーディションを受けたの。そしたら運良く受かっちゃった」
159センチの身長は、あの世界では小兵でした。「あと10センチ高ければスターになれるのにな」と言われたほど、当初はまったく期待されていなかったそうです。それが悔しくて、猛烈な努力と節制で自らを鍛え上げていったのです。
「この世界は大きい人にチャンスが与えられるんです。いったん入っちゃったからには、もう後戻りはできないし、前に進むだけ。だから、私には努力、根性、忍耐を繰り返して、チャンスをひとつずつ自分で奪い取るしかなかったんです。その結果がチャンピオンベルトだったわけ」
努力、根性、忍耐。今でもこんな言葉が好きだといいます。手あかにまみれた古めかしい単語の数々ですが、横田さんには、一筋の希望の光だったのです。
「あのころ、私はロボットじゃないかと思うほどに、自分を厳しく律して生きていましたね。お酒やたばこを始めたのは引退してから。今じゃだいぶだらしなくなっちゃったかな(笑)」
1977年に16歳でデビュー。以来、WWWA世界チャンピオンなど数々の輝かしいタイトルを獲得して、いったんは24歳で惜しまれながらも引退します。その後、リングヘの思いも断ちがたく、94年に復帰してファンの胸を焦がしました。
現在は、吉本興行が率いる「Jd'」の専属コーチやレフェリーとして、格闘技専門の衛星チャンネル「サムライ」ではキャスターとして、多忙な日々を送っています。
現在、日本の女子プロレスは7団体、レスラーは約100人。「ジャガー横田」の雄姿にあこがれて入ってきた選手も少なくありません。横田さんは、彼女たち後進の指導にも精力を注いでいます。
「夢? そうね、若返って再びリングに上がりたいな。私にとってレスラーは天職だったんですよ」
ポツリと言って虚空を見据える瞳に、いつしかワイルドな光が戻っていました。
読売新聞記者・佐川 和之
カメラ・原 和巳