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No.127  伊藤 剛臣(いとう たけおみ)

W杯に全身全霊燃やす
ひたむき江戸っ子「男になる」

坊主頭にあごひげ。刺すように鋭い目つき。ぱっと見は怖そうですが、口を開けば江戸っ子らしい気さくなしゃべり方。そのアンバランスさが何ともユニークです。現在、十月に英国・ウェールズなどで開かれるラグビーワールドカップ(W杯)を目指し、試合や合宿に多忙な日を送っています。

日暮里生まれの日暮里育ち。

「子供のころ、よく竹台高校の近くの南公園で遊んでいたんですが、紙芝居のおじさんが来るのが楽しみだった。駄菓子がまたおいしくてね。お祭りでみこしをかついだのもいい思い出です。懐かしいなあ」

祖父が自宅に柔道場を開いていて、父も元柔道選手。小さいころから柔道や相撲に親しんでいました。そのころに鍛えられた受け身の取り方は、ラガーマンになった今も十分に役立っているといいます。

第二日暮里小で野球、荒川第八中ではバスケットボールで活躍したスポーツ少年が、ラグビーと出会ったのは神奈川の法政第二高校に入ってから。最初は「甲子園に出てテレビに映ろう」と、野球部を志しましたが、新入部員の選抜試験の前日に「落とされるのが怖くなって逃げ出した」。次に思いついたのが、ラグビーでした。

ラグビー部ではめきめきと実力を伸ばし、三年生で高校日本代表に選ばれると、日本代表への憧れが芽生えました。W杯などの日本代表の試合は、欠かさずテレビの前で大声を出して応援したものでした。

初めて日本代表に選ばれたのは、法政大学から神戸製鋼に入社して三年目の一九九六年春でした。相手を蹴散らしながら豪快に走り抜けるプレーぶりで、神戸製鋼の日本選手権七連覇に貢献。その活躍が認められたのです。

しかし、その時は「とても複雑な心境だった」と言います。当時の日本代表は、前年のW杯南アフリカ大会で、ニュージーランドに17-145と記録的な惨敗を喫したショックを引きずっていました。夢が実現した喜びの一方で、どん底からはい上がらなければならないプレッシャーも大きかったのです。

それでも、平尾誠二監督の下、再建を進めた日本代表は昨年十月のW杯アジア地区予選で優勝し、四回連続の本大会出場を決めました。この予選で伊藤さんは八面六臂の働きを見せ、最優秀選手に選ばれました。さらに、十二月にタイのバンコクで行われたアジア大会では主将に任命され、日本代表の中心選手の地位を確立したかに見えました。

ところが、今年春になって日本代表の同じポジションに大物のニュージーランド人選手が新たに加わりました。ラグビーのW杯は、国籍にかかわりなく三年以上居住している選手は、その国の代表として出場できるのです。

伊藤さんは一転して厳しい立場に立たされることになりましたが、ひたむきさは失ってはいません。「与えられたチャンスは絶対にものにします。前はW杯は応援するものだったけど、今は自分が出て、勝つ。それだけです」

大学四年になって就職先を決める時、初めは東京の会社を希望していました。しかし、当時、神戸製鋼の看板選手だった平尾監督に「オレは大学を出てからロンドンに留学した。男やったら外のメシを食ってみたらどうや」と説得され、翻意しました。

「東京で生まれ育って、東京が大好きだったから、就職も東京以外は考えられなかった。でも、平尾さんの言葉でこだわりが消えたんです。今は神戸に来てよかったと思っています」。その平尾監督と自分自身を男にするために、W杯に向け全身全霊を燃やす覚悟です。

文・山脇幸二
カメラ・岡田 元章