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No.124  林 丈二(はやし じょうじ)

「マンホールの蓋」路上観察の"仕掛け人"
荒川の9割"踏破"、学会も誕生

「マンホールの蓋」(84年、サイエンティスト社)という一風変わったタイトルの本があります。この作者が林さんです。道端でふと見かけるマンホールの蓋(ふた)、はて、その気で見ると、妙に凝ったデザインもあれば、不思議と気になるものもある。

そんな蓋のデザインの分析から歴史まで、蘊蓄(うんちく)を傾けた本がそれです。林さんは、なんと、日本だけでなく、ヨーロッパまで足を伸ばして、マンホールの蓋について調べ回ったというから、実に不思議な人だというほかありません。

「デザインが面白いでしょう。そんな興味から入っていったんですが、そのうち、これには、どんな歴史があるのかなと思ったわけです。ところが、それが分からない。本なんか、もちろんない。それなら、自分で調べてやろう、とそれが、きっかけ」

そうして、堂々完成した本に、興味を示した編集者の依頼で、赤瀬川原平さんが書評をしてくれました。それが、ひょんなことから人の繋がりを生み、「建築探偵」こと藤森昭信さんに赤瀬川さん、南伸坊さん、荒俣宏さんらがメンバーとなった「路上観察学会」を誕生させる元となったのです。

「路上観察学会」というのは、路上の周辺にある物を何でも面白がろうというものです。もともとの発想がマンホールですから、これは、路上に観察すべき物がごろごろしている都会ならではのものといえるかもしれません。

そこは、それ荒川育ちの下町っ子、林さんならではの着眼といっていいのではないでしょうか。

林さんの家は代々、お医者さん。ところが、旧満州(現・中国東北三省)から引き揚げて、父親が開業したのは、練馬区。

「当時は田舎、畑ばかりで人はほとんどいない。患者がこなくて、食っていけない」

そんなわけで、林さんが生まれた昭和二十二年、生後一年もたたないうちに、一家は荒川区尾久四丁目(現・西尾久一丁目)に引っ越します。

そこで、林さんは、大学(武蔵野美術大学)を卒業するまでの二十四年間、生活することになります。

「ところが、家が医者でしょう。進学に都合がいいところということで、区内の小、中学校にはいかなかったんです」

そのために、幼なじみは近所の限られた子どもばかり。それでも、そんな幼、少年時代に、荒川という街はくっきりと印象を残しているようです。

「子どもですからね。お金もないし。遊ぶといえば、あちこちに行くことぐらい。それに、なぜか、行ったことのないところに行くのが好きな子どもだったらしくて。それが冒険みたいな感じだったんでしょうね」

川を渡る橋、大きな橋の行く先が妙に気になる子どもだったということです。

「マンホールの蓋」のために、長じて荒川区の九割方は歩き回ったという林さんにとって、この街の変わらなさがたまらなく懐かしいそうです。

「もちろん、家並みなんかは変わっていますよね。でもね、住んでいる人のペースが変わっていない。そんなところが、何か、いつ行っても安心できるんです」

気取っているわけでもないし、マイペースで楽しんでいる様子が見える。当たり前に生きている人たちの街、それが林さんの今も変わらぬ荒川のイメージであるようです。

文・吉弘幸介
カメラ・岡田 元章