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No.107  鳥海 英隆(とりうみ ひでたか)

30メートル跳ぶ恐怖と爽快感
跡取り延期して留学、日本一に

水面をはねる飛び魚を想像してください。水上スキーのジャンプ選手は、時速六十㌔近いスピードでジャンプ台から飛び出し、着水するまでに三十㍍以上もの距離をスキー板に乗って空中移動するのです。「ものすごい恐怖感と爽快感ですね。バランスを崩して水面にたたきつけられたら、場合によっては大けがをするし、成功した時は何物にも変えられない感激と楽しさがあります」

水上スキーの魅力をこう語るのは、西日暮里でハンドバッグ店を経営している鳥海英隆さん。二十二年前、立教大学入学と同時に、この世界に飛び込んだそうです。「もともと雪上を滑るスキーが好きで、共通する部分もあったし」という漠然とした興味が始まりでした。

この競技は、モーターボートに引っ張ってもらいながら技術を競い合います。鳥海さんが最もスリリングだというのは、高さ一・五㍍の台から飛び出して飛距離を競う「ジャンプ」。ほかに、二百㍍の水面に置かれた六個のブイの間をすり抜ける「スラローム」と、曲芸技を競う「トリック」の2種目があります。

練習を重ねるうち、いつの間にか水上スキーの魅力にとりつかれ、三度も全日本チャンピオンに輝きました。一九七九年、八一年には世界選手権にも出場し、インドネシアのバリ島で開かれた八六年のアジア大会では個人総合で四位に入賞した、日本を代表する実力者です。

小さいころから、「将来はこの店を継がなきゃならない」という思いがあった鳥海さんは、大学卒業の年、「それなら今、何かやっておきたい」と、父の文男さん七年前他界)に、「日本一になってみせるから一年間だけ遊ばせてほしい」と頼みました。そして単身、ニュージーランドと米国・フロリダに水上スキー留学し、半年問、本場で技術を磨いたのです。その努力と意欲が、数々のタイトル奪取につながりました。

「何かをやる」という決意の裏には、「自分は跡取り息子のおぼっちゃん。でも、普通のおぼっちゃんにはならないぞ」という反骨心に似た思いが強くあったそうです。

昨年九十二歳で亡くなった祖母チカさんは、女手一つで日暮里に助産院を築き、婦人活動にもたずさわった勲五等の〝女傑〟日暮里・真土地区に生まれた三十五歳ぐらいまでの方なら″チカおばあちゃん″の世話になった人が多いはずです。この「やり始めたことは最後までやりとげる」といった信念が、鳥海さんの中にも流れているのです。

路地裏の野球少年だった鳥海さんは、四十歳になった今もスポーツを愛し、水上スキーを日本全国に広めようと意欲的です。選手生活と家業で忙しい傍ら、日本水上スキー連盟の理事、審判員なども務めています。

そんな若々しいお父さんの背中は、二人の娘さんにも頼もしく映ります。「カッコいい父親でいたいじゃないですか」。取材中、初めて顔を赤らめた鳥海さんは、理解のある妻、裕子さんにも感謝しています。大学時代の水上スキーで知り合って恋愛結婚。「練習で仕事をさぼったことは一度もありません」と胸を張る鳥海さんですが、裕子さんの支えが一番、大きいことは言うまでもありません。

読売新聞記者・三木 修司
カメラ・岡田 元章