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No.103  芳野 満彦(よしの みつひこ)

マッターホルン北壁を征服―日本人初、凍傷の足で攀った「栄光の岩壁」
日暮里から見た富士に魅せられ

「そこに山があるから登るなんて言わないで、好きだから登る。山の中にきっと何かがあると信じることです」

経営する水戸市の運動具店でこう語る芳野(本名:服部)満彦さんは、昭和40年日本人初のマッターホルン北壁登攀(とはん)で世界的登山家の地位を確立、新田次郎の小説「栄光の岩壁」のモデルとされています。

昭和6年、日暮里生まれ。小さい時、諏方神社や家の近くの富士見坂から見た富士や谷川岳、筑波連山に憧れました。

「第一日暮里小学校五年の時、中一の兄広弥と夏休みに行った富士は強烈な印象でした。八合目に泊り、御来迎の美しさに感激、大きくなったら山に登るんだと決めました」

つまり登山家の原点は日暮里にあるのです。

「中学は早稲田。入学式も戦時中なので富士の裾野の滝ヶ原で1週間合宿。山への憧れがふくらみました。中三では山のハイキング、中四で早稲田の山岳部員の兄と北アルプス、白馬、谷川などの冬山に登りました」

ところが23年、学制が変わり新制高校2年の17歳の冬、八ヶ岳で凍傷を負い、両足指切断の運命に遭遇しました。

「一年先輩と主峯赤岳頂上を極め縦走の途中、猛烈な吹雪に襲われ、赤岳の石室小屋に引き返すこともかなわず、雪中でビバーク(野営)。先輩は死亡。私は茅野市の病院で手術を受けました」

登山家としては致命傷ですが、芳野さんは逆に、山に青春のすべてを賭けました。

「日暮里に帰って、満洲から引揚げの軍医に診てもらったところ、絶対歩けるようになる。その練習を始めなさいと言われ、必死の努力で徐々に歩けるようになったんです。学校は一年遅れでしたが、その年の5月、谷川岳に行きました。このころから岩攀(のぼ)りを主にして穂高など試み、二年後には上高地の山小屋の番人として一人で越冬しました。ガラス窓などが盗まれるためです」

大学は、浪人して早稲田の文学部史学科に入りました。

「大学でも、人がまだ登っていない所を狙い、32年、積雪期前穂高四峰正面壁はじめ、屏風中央カンテとはん登攀などに成功、40年、渡部恆明とマッターホルン北壁登攀(とはん)を達成しました。しかし1週間後、彼はアイガー北壁で遭難、劇的な死を遂げました。私は以後、キリマンジャロに7回登攀(とはん)など世界の山々を登りました」

この間、蔵前の運動具メーカーに入社、顧問としてスキーの三浦雄一郎と山の記録映画を持って全国宣伝に歩きました。その第一歩の水戸で、市内の運動具店主の服部洋子さんと知り合い、結婚しました。洋子さんは5年前亡くなりました。

芳野さんは山の絵も有名。

「絵が好きで、芸大を目指しました。不合格でしたが、今も絵筆を握り、山岳雑誌『岳人』の表紙絵を描いています。展覧会も地元や東京で開催、5月も六本木のギャラリー東京映像で開きました。絵は山で見つけたものです。仲間には星、花の研究家になったのもいます。山に何かがあるというのは、こうしたことです」

これからの夢は、外国の山の見える所で暮らすこと。

「今はネパールのカトマンズで小さな家を借り、一年のうち、四か月暮らしています。生活費が安いのも魅力です。日本の山とスケールの違うヒマラヤなどは、見るだけでもいいですね」

登山への注意は。

「無理しないこと。山は決して逃げません。また、山登りを楽しむのも大切。準備で資料を読んでワクワクしたり、帰って来て写真や絵を整理したりと、一生楽しめます」

文・真下 孝雄
カメラ・岡田 元章