トップ   >  荒川の人  >  No.61

No.61  杉浦 享(すぎうらとおる)

野球生活、荒川に住み安定
最高は日本シリーズ代打満塁決勝ホームラン

「代打杉浦」。1㍍78、93㌔が左バッターボックスに立った時の存在感は格別でした。

昨年「ヤクルト日本一」を勲章に引退しましたが、ご本人は至って意気軒昂。南千住二丁目の自宅には、数あるカップや賞状と並んで、ある日のスポーツ新聞が飾られています。そう、平成四年の日本シリーズ対西武第一戦での、まさに劇的な代打満塁決勝ホームランの紙面です。

二十三年間ののプロ生活で、やはりこれが一番の仕事でした」

入団したのが昭和四十六年。サンケイからヤクルトに変わった年で、まさにヤクルトとともに野球生活を送ったわけです。

愛知県出身。中学では陸上部の選手でした。

「相撲、水泳などスポーツは何でも人並み以上にやっていました。中学三年の時、たまたまキャッチボールをしていたら、野球部の先生に誘われて入部、すぐピッチャーで四番になりました」

愛知高でも四番を打ち、甲子園には行けなかったが、強打者の素質は当然スカウトの目に止まりました。

「ドラフト十位。その年は十五位まであったのです。若松さんが四位でした」

荒川区との緑は深いのです。

「ファーム時代に、ロッテとの試合によく東京球揚に来ました。五十二年に結婚してから南千住に住み、今の家は五十六年以来住んでいます。女房の実家なんですが、その両親と一緒に住んでいます」

五十三年、広岡監督で優勝した年には、七十七打点、六十年には本塁打三十四本を打ち、チームの柱として大活躍しました。

「荒川に住むようになって野球生活が安定しました」

六十年五月、月間MVPに輝いた時、賞品に卵やお米をどっさりもらいました。「学校や施設にと全部区に寄付したら、うちの子も学校でゆで卵を食べたと言ってました」
満塁ホームランを打った時、知らない人が、家の前にお酒を置いていったそうです。「多分山谷のオッサンでしょう」

東京球揚の跡にできた荒川総合スポーツセンターで、走ったり、ウエートに汗を流す杉浦さんの姿を見かけます。「サウナもあって本当にいいトレーニングができます」。

野村監督評をうかがったら、「野球についてあれほど勉強し、説明ができる人はいません」と断言し、心底尊敬していることがわかりました。

「夜のミーティングで野村さんがこう言うのです。『お前ら、おれの講義は一時間百万、二百万の値打ちがあるんじゃ。よく聞いておけ』野球は体で覚えるものと思っていたので、はじめは反発したのですが、本に書いていない野球技術をどんどん黒板に書いて教えてくれる。すごい企業磁密ですよ。選手たちは眠気など吹っ飛んで身を乗り出してノートを取る。整理したら、何十冊にもなりました」。野球をペンで学ぶことを知ったと言うわけです。

「監督はベンチでぶつぶつ言うでしょう。ボヤキに聞こえるでしょうが、あれは、選手にヒントを言っているのです。『お前ら、まっすぐを待ってたって来やせんぞ』。本当に当たるんです。古田に向かって言っているようで、他の選手もちゃんと耳を傾けている。監督の作戦が読めるのです。次の代打はおれだな、とか。あれだけ勉強してなんで負けなきゃいかんのか、と言う気持ちになる。池山も広沢も人間が変わりました」

お子さんは、長男優君(南千住第二中)、長女愛さん(和洋国府台中)、次女真委さん(第二瑞光小)の三人。「息子はクラブチームで野球をやっていますが、本当にやる気なら、徹底的に鍛えます。地域の人にも喜んで指導しますよ」とうれしい言葉を残してくれました。

読売新聞編集委員・平田明隆
カメラ・原 和巳