"待った"なしの好きな道
道灌山中の友人と今も仲よく
若手の台頭いちじるしい最近の将棋界にあって、森下七段の活躍は、特にめざましいものがあります。一昨年の第四期竜王戦七番勝負で、谷川竜王に挑み惜しくも敗れましたが、あの大熱戦は、将棋ファンなら記憶に新しいところです。また、NHK教育テレビ日曜朝十時の将棋講座の講師としておなじみです。
─荒川にはいつごろ住んでいたのですか。
小学校六年の時、福岡県北九州市から将棋の勉強のため上京し、東海の鬼といわれた師匠の故花村元司九段の家の近くにということで、西日暮里に住むようになりました。第六日暮里小、道濯山中学に通い、卒業後は将棋一筋です。荒川には十年間、祖母と暮らしました。
─じやあ、おばあちゃん子ですね。
ええ、まあ。祖母が九州に帰ったのを機に東中野に移って四年、そして昨年五月ここ世田谷のマンションに引っ越してきました。
─荒川にはどんな印象を。
中学でいい友人ができたということです。みんなそれぞれの道で一生懸命生きています。今も同級生とつき合っています。でも私ほど変わった道を選んだ人はいません。
─子どもの頃から将棋が強かったのでしょう?
好きでした。十二歳の子どもでしたので、将来どうなるかなどまったく考えないで、純粋に好きというだけでこの道に入りました。今、将棋で生きて行けるようになって本当に有難いと思っています。
─棋士には数学が得意な人が多いと聞きますが。
私は本を読むのが好きで、得意科目はむしろ社会や国語の方でした。
─プロになったのは。
昭和五十八年九月、四段になってプロ入りしました。
─棋士の生活は?
対局日と研究日が主な日常です。対局数は、私の揚合年間で約七十局。多いほうです。勝てば勝つほど対局数が増え、それだけ収入も多くなる仕組みです。タイトル戦になると、一局指すのに二日がかりです。
─順調に昇段したのですね。
いえいえ。将棋界ではÅ級からB1、B2、C1、C2の五つのクラス分けがあり、現在130人程のプロ棋士がいます。最初のC2からC1に上がるのに五年かかり、一番苦しい時期でした。C2級には五十人もいて、一年に三人だけしかC1に上がれないのです。私は昨年B1に昇級できました。
─成績次第で、来年は最高のA級十人の仲間入りですね。ところで、これまでに、他の人生もあるんじゃないか、と迷ったことはありませんか?
将棋に「指した手が最善手」という言葉があります。私の場合、この道を取りましたので、この道が最善手だと思っています。将棋では「待った」はできません。もう指してしまった手ですから、このあとのことを考えなければいけないのです。
─いい言葉です。プロ棋士としての心構えは。
ふだんの勉強です。棋士は急に強くなったり、弱くなったりすることはないのですが、怠けると目に見えない形で確実に落ちて行くものです。いったん落ちると、なかなか元に戻りません。
─「将棋の相対性理論」というタイトルのNHK講座はユニークですね。
将棋を単なるテクニックとしてでなく、その根本的な原理を自分なりに理論化して考えてみたいと思っています。
森下七段の棋風は手厚いと言われます。その言葉、態度は実に折り目正しく、住まいも、二十六歳独身男性の一人暮らしとは思われないほど整理整頓が行き届いていて、歴史書や戦略思想の本がずらりと並んでいます。将棋に勝つために何でも吸収しているそうです。今後の活濯を大いに期待したいものです。
読売新聞編集委員・平田明隆
カメラ・水谷昭士