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No.51  松林 桂子(まつばやし けいこ)

二期会を中心にオペラ
宮司の家系、境内でのびのび発声

昨年二月、サンパール荒川で、モーツァルトのオペラ「魔笛」が上演されました。この時、主役の「夜の女王」を演じたのがソプラノの松林さん。自宅は、結婚してから移った東日暮里のマンションですが、墨田区八広の音楽室へ、ということで訪ねました。なんとそこは、「こんにゃく稲荷」で知られる三輪里稲荷神社の宮司さんの家。境内の一角の古い木造家屋の一室にグランドピアノ。座布団に座ってのインタビューです。

─静かないいところですね。

慶長年間から続いている神社です。亡くなった父の後を縫いで、いま兄(健一氏)が宮司を務めています。四代目です。私はここで生まれ育ちました。まわりに気兼ねなく声を出せるのがいいですね。

─「こんにゃく稲荷」 のいわれは。

ここで出すこんにゃくの護符が、のどに効くと言われています。何でも、江戸時代に疫病が流行し、こんにゃく護符で鎮まったという言い伝えがあり、今でもかぜにいいというので、毎年、初午(今年は二月六日)は大変にぎわいます。

─きっとその御利益で歌手になられた。

子どもの頃、どこのお子さんもやっているように、ピアノを習い始めたのです。ただ好きだったというだけで、それがそのまま、音楽の道に入りました。音楽のエリート教育を受けたわけではありません。学校も高校(都立南葛飾高)までふつうの公立学校でした。

─それが音楽家をめざしたのは。

小さい頃から踊ったり歌ったりするのが好きで、一時は宝塚にあこがれたこともありました。学校の先生になろうと思っていたのですが、音大を受験する頃になって、少し遅いのですけれど、声楽を専門にやったら、とピアノの先生に勧められ、国立音大と大学院で勉強しました。昭和五十五年、大学院二年のとき、ドイツのオットマール・スゥイトナーが来日し、その時ヘンデルの「アチスとガラティア」で主役に抜擢されたのです。以来、二期会を中心に数々のオペラをやり、それが仕事になりました。数人でグループを作って、全国の学校巡りもやりました。

─オペラ歌手人生って、経済的にはどうですか。

ギャラは形として出るのですが、赤字です。一つのオペラの練習に何か月もかかるので、他に定職は持てませんが、こうして、ご近所から生徒さんを集めて、一緒になって声を出しています。宮司の資格も持っているのですよ。国学院大学で講習を受けて取ったのです。まあ、将来も使うことはないと思いますが。

─ご主人も音楽を?
いいえ、ふつうの会社員ですが、音楽好きです。

─赤ちゃんは?

昨年十月生まれました。明弘と言い、生粋の荒川区民です。実は、サンパールでの魔笛の公演のとき、おなかにいたのです。でもその後も九か月まで歌っていました。おかげで安産でした。

─歌は胎教にもいいようで。

らしいですね。今も、私が歌うと、安心してすやすや眠ります。

松林さんは昭和三十一年生まれ。自宅に近い仲町商店街で買い物をするのが大好きな下町っ子です。クラシック音楽は、時間が長くて堅苦しい、と人は言うかもしれないが、面白ければどんどんファンは集まってくれる、と言うのが持論です。これからも、華やかな舞台で大活躍を期待したいものです。

読売新聞編集委員・平田明隆
カメラ・水谷昭士