トップ   >  荒川の人  >  No.11

No.11  古今亭 志ん朝(ここんてい しんちょう)

父親模写にあきたらぬ大器
「江戸ッ子ぶらない荒川の人たち」

荒川の人たちに楽しい一夜を…というACC(荒川区地域振興公社)の肝いりで「日暮里寄席」が生まれました。

その第一回の催しに、荒川と縁の深い古今亭志ん朝さんが招かれ、絶妙な語り口と仕草で、日暮里駅前のサニーホールを埋めた満員のお客さんを堪能させてくれました(九月二十日)。

高座へ上がった志ん朝師匠が、演題の〈試し酒〉に入る前、軽い枕をふっているのを、ニコニコしながら聞いていた当方は、途中でアレレと思わず腹の中で叫びました。

師匠はこういうのです。

「下町ッてェと、ベランメエ、江戸ッ子だいナンテ、むやみにイキがるもンですが、荒川の人には照れ臭いんでしょう。江戸ッ子ぶりをふり回すようなところはない…」

「見栄、張ってないし、面倒な付き合いもしなくていい。実に気さくで住み心地がいい。荒川にお住まいのお客さん方、どなたも逃げ出さないで荒川に頑張っていて下さい。区長に代ってお願いします」(拍手、爆笑)

師匠のこの話は、実は、本番の始まるちょっと前に、インタビューで交わした会話の一部だったんです。

こちらが驚くのは当然ですが、(今夜の客は荒川のみなさん、この話はイケる)と思ったのでしょう、早速、枕にとりいれた機転のよさ、さすがでした。

文京区で生まれ(昭和十三年)、千駄木小、第九中学、独協学園といずれも文京区の学校へ通いましたが、中学二年から結婚するまで十七年間、荒川区の日暮里に住んでいます。

名人志ん生の二男の志ん朝さんは、高校卒後、噺(はなし)家を志し、前座時代、父親ではなく、林家正蔵師匠について、稽古をうけました。なぜ、と聞かれて、当時の彼は「父の落語は、その日その日で違いますが、正蔵師匠のは、格調正しい。勉強するならこれでないといけません」―そう答えています。

多くの評論家たちから「父親の模写ではなく、独自の鋭い感覚を持つ。大器の感あり」といわれた志ん朝さんは、初高座が昭和三十二年、二ツ目が三十四年、三十七年には、真打ちに―という異例のスピード昇進で期待に応えました(普通は十年)。

古典落語はすたれる、と心配していたファンの一人、故・小泉信三氏は、志ん朝が出てきたから亡びないよ、とホッとしたそうです。

志ん生が亡くなった時、弟子たちと柩(ひつぎ)をかついで通りを歩いた志ん朝さんは「細い路地から、そのまた細い路地から、おじいさん、おばあさん、若い人が、続々出てきた、人垣ができるほどだった。みんな志ん生を聞いてくれていたんだな、そう思ったら」それまで出なかった涙が、自然にあふれてきたといいます。

「姉も姪(女優・池波志乃)も荒川区。離れられないんでしょうね。私も、いつかは、ここに住んでみたい…しかし今の地価じゃねえ」と、一瞬目をむいた、かに見えました。

文・篠原大