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No.205  秋山 照子(あきやま てるこ)

荒川シルバー大学 理事長

心にたくさんの人を住まわせられる人間でありたい

高齢者が抱く〝学びたい〟気持ちに 応えるために

▲平成21年度 シルバー大学
学園祭より

午後の日差しを浴びた校舎から、明るい歌声が聞こえてくる。小学校を改修した荒川区立生涯学習センターには、かつての学びやの快活さが息づいている。一つ以前と違うところは、そこに通う人々の年齢だ。多くの教科を同センターで開講している「荒川シルバー大学」の入学資格は、荒川区在住の60歳以上であること。現在は865名の〝学生〟が、それぞれのスタイルで、教養を身につけ、趣味を広げながら大学生活を送っている。シルバー大学では、仲間と一緒に生涯学習できるプログラムが組まれているのだ。 受講できる教科は、25教科に及ぶ。絵画や踊りなどの趣味を深める教科から、英語やパソコンなどの実生活に役立つ教科まで幅広い。さらに様々な分野で活躍している方を講師として招聘しての講義も行われている。入学から3年間学び続けると「卒業証書」が渡されるが、その後も引き続き受講でき、10年間で奨励賞が贈られる。 理事長の秋山照子さんは、そんなシルバー大学の設立に尽力してきたひとり。 「学生さんの誰もが学びたい意欲に溢れていて、教える側の講師も『身が引き締まる思い』だと言います。その講師を勧誘するのが私の仕事なのですが、退職間際の教員などに声をかけているので、はじめは大抵『退職してゆっくりできると思っていたのに・・・』って言うんです。ところが、一回、二回と講義をするうちに『教えている自分の方も生き生きとしてくる』と、やりがいを改めて感じていくそうなんです」 そうした講師陣と連携がとれている背景には、秋山さんが教員時代に築いてきた信頼関係があるからに他ならない。

教員を目指した頃から変わらない荒川区と教育への熱い思い

秋山さんは、大正15年荒川区生まれの83歳。戦時中、同年代の男性は招集令状で戦地に赴いていた。女学校の学生であった秋山さんたちは、その多くが鉄工場などで働く重労働に動員された。 その後、満17歳で代用教員に採用され、昭和17年から20年までの間、集団疎開先の教師として福島県石川町に赴任する。 戦後は荒川区で教壇に立ちながら日本大学社会学部を卒業。秋山さんの自己研鑚と弛まぬ真摯な仕事ぶりは高く評価され、昭和44年に第二瑞光小学校の校長に就任した。当時としては、公立学校の女性校長の草分け的存在であった。その秋山さんの教員としての意識の根底にあったのは、荒川区への熱い思いだ。 「実は教員を目指すきっかけになったのが、女学校時代に同級生から投げかけられた一言にあるんです。私が自己紹介を終えると、『荒川って不良の多いところよね』と言われたんです。それにすごく腹が立って、『だったら荒川を不良のいない街にしよう』と思ったんです」 その信念の下、教員時代もボランティアで独自の活動を続けてきた。三十代から四十代の頃には、高等小学校を卒業した後に進学していない少年少女たちを自宅に集め、太陽塾と名付けた教室を開いていたこともある。 このような教育に対する姿勢から、秋山さんに対する保護者の信頼は厚かった。毎年のように留任を求める声が寄せられ、経験を積むために異動しようにも転勤できない状態が長く続いたこともあったほどだ。 そして、教師という職業と教育についても、長年に渡って大事にしてきた確固たるポリシーがある。「貧乏をなくすために政治家がいる。病気をなくすために医師がいる。そして、無知をなくすために教師が必要なんです。今ではシルバー大学の中でも、戦争経験のない人が増えてきました。その戦争に対する無知をなくすことも、私たちの世代に託された大切な役目だと思うんです」 その人生経験に裏付けされた重みのある言葉は、世代を超えて多くの人々の心に響いている。 「子どもたちと接してきて感じたのが、荒川の人たちはすごく素直だということです。そして、私自身、自分の心にたくさんの人を住まわせられる包容力のある人間でありたいと思ってきましたが、そういう心の広い人が荒川には本当に多いと思います」 素直さと他人に対する優しさをもった区民の「幾つになっても学びたい」という気持ちに応えるために、教員時代にも増して秋山さんは奮闘している。 荒川区の教育発展に寄与してきた秋山さん。昨年10月には、教育に対する真摯な姿勢と荒川シルバー大学での功績が認められ、東京都教育功労賞が授与された。 今年で創立から26年目を迎えた荒川シルバー大学だが、年を追うごとに入学者を増やしているのは、秋山さんの人柄に魅了された人々が後を絶たないからなのかもしれない。