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No.183  福士豊秋(ふくしとよあき)

春の息吹を感じさせる響き 安らぎ生む「心との共鳴」

津軽三味線を演奏する福士さん。「厳しい冬のあとには、うららかな春が訪れる」。

福士さんの三味線から生まれる音は、日本人の心のふるさとを思い起こさせる。
津軽三味線・民謡は、厳冬のつらく耐える切なさを伝えるだけではない。凍てつく冬を乗り越え、春の息吹を感じさせる響きであり、唄である---青森県北津軽郡に生まれ育った演奏家・民謡歌手の福祉豊秋さん。「津軽の春」を感じさせる音楽活動は30年におよび、その名は全国に響き渡っている。現在、荒川区を拠点に活発な活動を続け、3日にはムーブ町屋でコンサートを開く。区内では一昨年に続く2回目の演奏会で、今回も福士さんの"津軽の世界"を多くの人が楽しみにしている。

研ぎ澄まされた天性と感性


福士さんの飾らない風ぼうと破顔は、たまらなく人を引きつける魅力がある

両親が民謡歌手だった福士さんは、子どものころから音楽の素質を育んだ。物心がつくころには大人が認めるほどの歌唱力を身につけていた。その天性の才能と感性は研ぎ澄まされ、20歳を過ぎたころにはライブハウスなどに出演、聴衆からはいつも拍手を浴びていた。
しかしある日、観客から「あなたの歌唱力は、お父さんと比べれば、半分もいっていないよ」と言われる。がく然とするものの、尊敬できる親を持った喜びがあった。同時に「親に追いつきたい」という思いが生まれた。
そんなころ、両親が民謡歌手という同じような環境で育った妻・由美子さんと出会い、結婚する。音楽活動の幅が広がり、「より多くの人に津軽の音ねを聴いてもらいたい」と三味線演奏も身につけた。
そして昭和50年、活動拠点を青森から東京に移した。石油ショックをきっかけとして約20年続いた高度経済成長が終焉しゅうえんを迎え、多くの人が社会に不安を抱いていた。そんな社会を目の当たりにした福士さんは、由美子さんとともに、積極的に人々の前に出ていった。三味線を奏で、民謡を唄い、持てるすべてを出し尽した。福士さんの音楽はその時代の中で、日本人が忘れかけていた「心のふるさと」を思い出させ、人々を勇気づけた。

心の安らぎを覚える演奏と唄

津軽三味線の一の糸、二の糸、三の糸。福士さんの左指はこの3本の糸に沿って巧みな動きを見せる。右手に持った鼈甲べっこうの撥ばちで、糸を爪弾つまびいた瞬間、福士さんの心は旋律の奥深くへ入っていき、「無」の状態になるという。それが聴く人の心と共鳴し、一体となったとき、多くの人が安らぎを覚える。
この30年間、人々の中に入って演奏するという福士さんのスタイルは、確実に津軽三味線と民謡のファンを増やしてきた。
一方、テレビなどで脚光を浴びる三味線の若手演奏家たちが、福士さんを慕って、よく自宅を訪ねてくる。そんな若い人たちに、福士さんは折に触れて音楽活動に取り組む姿勢を伝える。陰ながら後進の指導的役割も果たしてきた。

ムーブ町屋でコンサート

3日のムーブ町屋では「福士ファミリー・ひなまつりコンサート」と題して、福士さんと由美子(二代目・成田雲竹女)さん、長女・あきみさんの家族3人が中心となって三味線演奏と民謡を披露する。あきみさんは、幼くして津軽民謡に親しみ、小学生のときから全国大会で数々の賞を受賞している。そのあきみさんの唄も見どころだ。
コンサートに向けた最後の調整に余念がない福士さん。「春を待ちわびていたみなさんの心が、安らげるような津軽の調べをお届けできれば幸せです」と、にこやかな顔を見せる。