トップ   >  荒川の人  >  No.150

No.150  西川 賢一(にしかわ けんいち)

転身6年「言葉の翻訳職人」
赤土小6の4、同級生夫婦です

アルプス以北やイギリスの田舎に点在する民家は、大切なお菓子を入れておく装飾箱のようです。

柱や梁を木材で組み、間に土やレンガを埋め込む。建物の外に現れる幾何学的な骨組みのパターンは見飽きることがありません。

ドイツの田舎町には、そうした「ハーフティンバー」と呼ばれる木造建築が数多くあります。

――ツェレ、ミルテンベルク、リンブルク、ドゥーダーシュタット、マールブルク、ヨルク――観光ガイドブックには載っていない小さな町にも、絵葉書のような美しさが満ちあふれています。

5年前の夏、西川さんはドイツに出かけ、ハーフティンバーを72日間かけて見物しました。撮影した写真は大切な宝物。

「オークの梁に年代が刻まれているんです。それが、1500年代、ルネサンスの時代にさかのぼるものだったり。そうした古きよきものが現代でもきちんと役立っているんですよ」

1942年生まれ。東京外国語大学ドイツ語科を卒業し、学習研究社に編集者として入社。百科事典の編纂や英会話教材の開発に携わりました。

「長年、人のために本を作ってきたのだから、今後は自分の好きな本を作ってみたい」と6年前に会社を辞めて、大好きだったドイツ文学の翻訳者に転身しました。

「ドイツ文学というと、何かしら深刻で、辛気臭くて、笑いに乏しくて、という印象がありますが、その通りです(笑)。ただ、若い人は一度はドイツ文学に触れてみてもいいかも知れません」

そうしたドイツ文学の新たな潮流を紹介していくのも、翻訳家の仕事です。

そのうちの一人が南ドイツ出身の女性作家、マリー・ルイーゼ・カシュニッツです。短編集『六月半ばの真昼どき』は西川さんの訳。

「生きた人間がくっきりと浮かび上がってくる好短編集ですよ」

やはり女性作家のドーリス・デリエ著『あたし、きれい?』も氏の訳です。

これらは、いわゆる純文学ですが、親しみやすい読みものもいろいろ翻訳しています。皇妃エリザベートやルートヴィヒ二世の伝記などは、だれが読んでもおもしろいでしょう。

現在は、ドイツで文学の法王と称される批評家マルセル・ライヒ=ラニツキの自伝の翻訳を手がけています。

ドイツ文学に触れ、ハーフティンバーの写真集を眺めているときが至福の時、と言います。

「電車の中でドイツ文学の原書を読んでいたら、ドイツ人に話しかけられて、意気投合して、そのまま家に連れてきたこともあるんですよ」

と話すのは、アサ子夫人。夫人とは荒川区立赤土小学校6年4組の同級生です。

「ハーフティンバー巡りにも連れていってもらいましたが、私としては、ガイドブックにある名所旧跡にも行ってみたかったんですけど(笑)」

――ゴスラル、バンベルク、ディンケルスビュール、フルダ、ベルンカステル――美しい町並みは、そこで生活する人たちの力強さ、美しさも投影しているようです。

西川さんは言います。

「荒川は肩ひじを張らなくても気軽に生きていける街です。そして、無口だけれども技術はしっかりとした職人さんたちが誇りを持って、黙々と自分の仕事をしている街。私も言葉の翻訳職人です。だから、私にぴったりの街なんです」

読売新聞記者・臼井 理浩