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No.143  吉野 健一(よしの けんいち)

優しく 懐かしい日本の風景
どこか荒川の自然の思い出が…

何もないけれど、逆に、何でもあった―そんな時代でした。

適当な草っ原ならそこかしこにあって、遊び場には困りません。黒い土の道。道端で石蹴りに興じる子供たちの側を、馬車や荷車がのんびりと通り過ぎます。楽しみの紙芝居だって、やってくる。

夏。荒川の土手に行けば、水遊びが楽しめました。澄んだ水の中では、タガメやドジョウ、ウナギ、フナなどが力強く生きていました。

秋。シオカラトンボが乱舞する土手には、夕方コウモリが飛来します。小石を投げ上げると、虫と勘違いしたコウモリが見事にキャッチします。子供は遊び場を創造する天才なのです。

でも、そんな豊かな自然や歓声を上げていた子供たちの姿は次第に消えていきます。

幼い妹をおぶっていた少女、喧嘩も強いけれど優しかったガキ大将、膝につぎはぎを当てたいたずらっ子は皆、どこへ行ってしまったのでしょう。

彼らは吉野さんの絵の世界で、今も生き生きと遊んでいるようです。あの頃と同じように。

若いころは商業デザインの勉強をし、デザイン関係の事務所にも勤務しました。

やがて、二科展の商業美術部門で入選を果たし、本格的な画家デビューを迎えます。

「絵の先生についたことはありません」と語る吉野さんは生まれも育ちも荒川。

優しい筆遣いから描き出される懐かしい日本の風景にはどこか荒川の自然の思い出が紛れ込んでいるようです。

NHK教育テレビで、作品「音楽絵本まほうつかいのでし」が、全国に紹介されたのを契機に、アクリル画の素朴でほのぼのとした作風が注目されました。その後、1994年、日伊現代芸術巨星展でグランプリ、2000年、アジア芸術祭で国立国父記念館館長賞、イタリア・モンテフェルトロ公国芸術祭でウルビーノ芸術大賞を受賞するなど、国際的な活躍を見せています。
いわさきちひろや谷内六郎らが所属していた日本児童出版美術家連盟に所属して、独自の童画の世界を築いています。

吉野さんは「物はない時代でしたが、人々は助け合いながら生きていました。そうした人と人の愛、自然とのふれあいを描きたいのです」と作品を描く動機を語ります。
吉野さんの展覧会で、一人のお年寄りが、目に涙を浮かべていました。

聞くと、絵にじっと見入ったまま 「私の故郷、そのものなのです」と答えたそうです。

まきが積み上げられ、冬支度を急ぐ山の里。白樺や紅葉の林の中にたたずむ子供たちや動物たち。

吉野さんの絵の前に立った人は、絵の中に入っていって、古い友達と再会を果たし、積もる話をしているようです。
道は硬いアスファルトで舗装され、護岸工事が施された川では、ずいぶんと生物も減っています。子供たちは部屋にこもって、そして、大人が与えたコンピューターゲームに夢中です。

「今は便利な世の中になりましたが、それと引き換えに失ったものもありますよね。私の絵で、こんな空間にもう一度行ってみたい、と思っていただければ」

静かな口調で語る吉野さんの眼差しには、優しさと同時に、消えてしまったものに対する哀しさもあります。

読売新聞記者・臼井 理浩