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No.142  志村 正順(しむら せいじゅん)

草創期のプロ野球、相撲、学徒出陣・・・
ラジオで数々の名実況放送
「下町の人情・言葉 忘れないで」

早熟で読書好き。後年、スポーツアナウンサーとして一世を風靡することになる志村さんの、それが少年時代の姿でした。

南千住の乾物商「川萬」の三男として生まれた正順少年は、母親に買い与えられた本や雑誌で読書の楽しさを覚えます。瑞光小学校から日本大学付属中学(現・日大一高)に進んだころには、自分で手に入れられる本では飽き足らず、実家の裏にあった同級生の寺に上がりこんではその蔵書を読破するほどの「本の虫」に成長していました。

「そこで、お寺は、なかなかいい商売だぞと思ってしまった。当時は不景気で就職先もなかなかないという時代。しかも、乾物屋なんていうのは、一銭一里が相手、ところがお布施は五円、十円。よし、坊さんになろうと簡単に考えてしまった」

仏教系の大正大学に進学して、同時に三年間、滋賀にある親戚の寺で修行。得度も受け、お経も相当に覚えたものの、東京と違って地方の寺ではお布施も微々たるもの。予想に反した事態に「これは一生の仕事じゃない。もうやめた」と、あっさり方針を転換、学校も明治大学に移ります。

しかし、卒業したものの、不景気は相変わらずで職も決まらぬまま2か月ほどブラブラ生活。そんな折、たまたま大学に募集案内のあったNHKアナウンサー試験に挑戦し、応募者1000人、合格者23人という難関を見事にクリア。昭和11年、アナウンサーとしての第一歩を踏み出すことになります。

当時のNHKは、終戦の「玉音放送」のアナウンサーとして放送史に名を残すことになる和田信賢を始めとして、「前畑がんばれ」の河西三省や松内則三など錚々たる先輩たちが揃っていました。

そんな中で、志村さんに最初に与えられたのは、草創期のプロ野球の実況でした。

というのも、戦前は野球といえば6大学野球という時代で、プロ野球は、一段下と見なされていたからでした。

しかし、そのお陰で思わぬ経験をすることになります。

「あの不世出の大投手、沢村の実況をしたのは、僕が最初だったんですよ」

その後、1年間の名古屋勤務を経て、昭和15年に相撲実況の担当となった志村さんでしたが、時代は戦争の泥沼に突入、スポーツは冬の季節を迎えます。

そうした中、思わぬ大舞台が与えられます。昭和18年に雨の神宮外苑陸上競技場で行われた学徒出陣壮行会の実況でした。戦局の悪化に伴って、それまで徴兵を猶予されていた大学生たちも戦場に駆り出されることになります。約3万5000人の学徒の行進を見送る5万の人々。その実況は歴史に残る名放送といわれました。

「最初は和田さんがやる予定だったんですが、急に私がやることになった。予想外のうえ、原稿もない。それをやり通したのは、大きな自信になりましたよ」
そして、終戦。再びスポーツの世界に活気が戻ります。そして、その世界には、水を得た魚のように実況を続ける志村さんの姿がありました。

「空々しいことを言わない。平明な言葉で分かりやすく表現する。それができたのは下町で生まれたからでしょうね」
ラジオからテレビヘ。音から映像という時代の変化を見て、志村さんはアナウンサーの世界から身を引きます。

「百聞は一見には敵わないと思って、引退を決意しました」

来年米寿という志村さんですが、記憶、口調ともに年齢を全く感じさせません。その志村さんから、故郷に一言。

「下町の独特な人情を忘れないでほしいですね。昔がそうであったように、下町の言葉が聞こえる町であってほしい」

読売新聞記者・吉弘 幸介