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No.137  武双山 正士(むそうやま まさし)

綱へ"怪物伝説"さあ本番
人情味あふれる応援を背に

「謹んでお受けいたします。大関として常に正々堂々、相撲道に徹します」

春場所後、大関に昇進した武双山は伝達式で、力強い決意表明を行いました。プロ入りして以来一貫して、目先の白星を追うだけの変化相撲を否定してきた武双山らしい口上でした。

専修大学1年の鷹巣大会の団体準決勝、同志社大学との一戦で「どうしても勝ちたくて」生涯唯一の立ち合いの変化をしてしまいました。しかし勝ったとはいえ「あと味が悪くて、うれしくなかった」とその夜は眠れなかったと言います。

どんな相手とも常に正面から真っ向勝負、″武双山流の美学″を貫いての栄冠だったのです。

小学生のころから、水戸相撲連盟の理事を務める父尾曽正人氏と鍛えに鍛えた″親子鷹″ぶりは有名です。

朝夕の激しいけいこも遊び盛りの子供にとっては苦痛でしたが、何よりも辛かったのが朝食でした。体を大きくするためにと正人氏が課したノルマは大人二人分の食事、牛乳1リットル、チーズ4個。これを平らげないと学校に行かせてもらえませんでした。武双山は涙を流しながら食べたと言います。

しかしこうした「相撲版巨人の星」ばりの精進が実を結び、水戸農時代には「高校横綱」に、専修大学に進んで3年時には「アマ横綱」に輝きました。学生相撲は2、3年時にトップクラスの力を有するとその後相撲が悪くなる傾向があります。服部(元前頭藤ノ川)、久島海(現田子ノ浦親方)などそうした例は多いのですが、武双山は前者の轍を踏みませんでした。

3年で大学を中退すると、武蔵川部屋に入門、平成5年初場所に幕下付け出しでデビューしました。その後は破竹の快進撃、昭和以降最短のわずか8場所で関脇昇進を果たすなど″平成の怪物″の異名を取りました。だれもがすぐに大関になるかと思いましたが、失速してしまいます。

大関昇進の基準が以前に比ベると、厳しくなったこともありますが、何と言っても度重なるケガが最大の原因でした。

左肩の脱臼、腰痛、左足親指のケガ、ぶくらはぎ肉離れ……。特に左足親指のケガは重傷で、ジン帯が伸び切ってしまい足袋が欠かせなくなり、持ち前の馬力がパワーダウンしてしまいました。

そんな時期でも部屋の周囲の人々は暖かく見守ってくれたといいます。

「自転車で走ったりしていますと、気安く『頑張れよ』と声をかけてくれるんですよ。東京というとクールな人が多いというイメージですが、荒川区にはそんな人情味あふれる人が多く、応援してくれるのでありがたいですね」

初優勝した今年初場所後には、商店街の店先に「優勝おめでとう」という張り紙が数多く見られ、優勝の感激を新たにしたといいます。
「地元の人もそうですが、いろんな人に支えられてここまできたわけですからね。今後もそうした方々のためにもさらに頑張っていきたいです」

相次ぐケガを克服してつかんだ悲願の座。武双山の地力は本物、と見る専門家は多いのです。平成の怪物伝説はこれからが本番です。

読売「大相撲」記者・長山 聡
カメラ・水戸 保夫