川柳60年、年に選句35万
育った三河島も「変わったなぁ」
「五・七・五」の十七文字で世相や社会を鮮やかに切る川柳。尾藤さんは、新聞の川柳欄、企業の川柳コーナーの審査員、カルチャーセンターの講師などを務め、多忙な毎日を過ごしています。
実家は、三河島駅前で旅館「龍明舘」と、お茶の店を営んでいました。昭和四年生まれの尾藤さんは、そこで二十数年を過ごしました。自宅の隣は真土小学校(いまは廃校)。「頭痛で学校を休んでいても、運動場からイチ、ニと体操をする声が聞こえてくるんです。落ち着いて寝ていられなくて、途中から学校に出ていったこともありますよ」と笑います。
小学生時代は、日中戦争のさなか。「学校ごとに作られた海洋少年団に入っていました。水兵のような制服を着て、出征する兵隊さんとラッパを吹いて三河島駅まで行進し、万歳とともに送り出していました。その後、空襲も随分経験しましたが、自宅は幸運にも焼け残りました」
最近、久しぶりに実家の近くに行ってみたそうですが、「昔からの店もほとんどなく、随分と変わってしまったなあという印象でした」といいます。
父親は、川柳作家の尾藤三笠。そのため、「子供のころから川柳の本や雑誌を、絵本代わりのように読んでいました」という尾藤さんは、自然と川柳の道へ進んでいきました。
昭和十六年、区内の句会へ出席したのが、尾藤さんの川柳界へのデビュー。同じ年に、別の句会で初入選しました。「おまけで入選させてくれたのかも知れませんが、それから病み付きになってしまったんです」。以来、川柳歴は約六十年にもなります。
昭和二十三年、川柳六巨頭の一人、前田雀郎に師事しました。その後、学習院大学国文科を卒業し東京タイムズ入社、昭和四十八年に退社して文筆業に専念、「川柳総合事典」など著書も多数です。昨年五月には、上野の東照宮参道に句碑が建立されました。
サラリーマン対象のコンクールに応募が殺到するなど、今や川柳はブームを迎えています。
川柳の魅力とは、「今の時代、誰でも不満や言いたいことがあるはずです。それを端的に表現できるところでしょう」
句作のポイントとしては、「作者の考えが句の表面に出てはいけません。それを読者に想像させるようにすることが大切です」といいます。
例えば──と二つの句を挙げました。「『銀行の金庫が空になる怖さ』という句があります。しかし、銀行の金庫が空になれば怖いのは当たり前で、わざわざ怖いという必要はありません。これに対して、江戸時代に『朝帰りだんだん家が近くなり』という句があります。うまい句です。これだけの言葉で、本人のドキドキしている様子が伝わってきます」
ブームとともに、尾藤さんの活躍の場は広がっています。
「ここ数年、仕事は増える一方です。一年間で約三十五万句に目を通します。一日十時間ワープロに向かっていると、かなり疲れます。でも、ぼんやりしている時間がなくて、ストレスを感じる暇もありません。来年古希を迎えるので、そろそろ楽隠居といきたいところなのですが、生涯現役となりそうです」
長引く不景気、悲惨な事件・災害など明るい話題が少なかったこの一年を振り返って、一句お願いしました。
トラの尾に毒を残して除夜の鐘
読売新聞記者・寉田(つるた) 知久
カメラ・玉木 雄介