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No.119  原田 耕作(はらだこうさく)

美術教師の傍ら実篤に師事
「私のまほろば荒川、変わらぬ人情」

 今月十二日に七十五歳になる原田さんは、高等小学校で図画工作の教師として教壇に立って以来、戦後も中学校の美術の先生として、四十年以上にわたり教育現場の第一線で教鞭をとってこられました。

 荒川九中の教師を最後に定年退職されましたが、その教職のかたわら、文筆活動を続け、江戸初期に神津島に流されたクリスチャン殉教者の伝記「おたあ・ジユリア」などの作品を発表し、故司馬遼太郎氏から高い評価を受けたということです。

 小説だけではなく、短歌雑誌「まひる野」の同人として活躍される一方で、二十年ほど前から続けているという観世流の謡曲の〝世話人〟としても、忙しい日々を送っておられます。

 「去年二月に肺がんの手術をして、息が続かなくなりまして、謡曲の方は、もっぱら会場の場所取りですよ」と笑う原田さんですが、とても、そんな大手術の後とは思えないほどです。

 生まれも育ちも三河島という生粋の荒川っ子。第三峡田小から第一荒川高等小学校(現区立一中)を終えた後、現在の職業訓練校で一年間学び、東京・三田の鉄工所で働き始めました。

 「その会社が、海軍の仕事をしていた関係で士官たちから可愛がられましてね。彼らから、若いんだから勉強しなきゃだめだと言われ、夜間中学に通うことにしたんです」

 中学を修了して試験を受け、教師になったのが十八歳の時。その後、教師を続けながら明治大学文学部を卒業します。

 教えている教科とは全く違う文学を選んだのは、幼いころから「話を作ること、物を書くこと」が好きだったからだそうです。

 そして、二十五蔵の時、原田さんは、武者小路実篤の門を叩きます。戦後、追放中の身の上だったとはいえ、相手は高名な文筆一介の無名な文学青年が会いたいからといっても、簡単に会えるわけではありません。

 「家のそばまで行ったんですが、さて、どうやって入ったらいいか分からない」

 しばらく躊躇しているところへ、子供を抱いた女性が出てきました。これが実篤の長女。短い会話で、事情を察した彼女が偶然にも実篤との仲介者になることになります。

 「娘さんに会わなかったら、恐らくそのまま帰っていたでしょうね」

 まさに、幸運な出会いというべきでしょう。それから原田さんは、月に一、二回訪れ、実篤の教えを受けることになります。

 「戦後のことで物資不足でしょう。紙がないので、答案用紙の裏に習作を書いて、見てもらいました。そんなもの先生がよく見てくれたと、今となって思いますね」と目を細めながら、恩師の思い出を語ってくれました。

 生まれ育った荒川の地も、昔と今では、姿は変わってしまいました。以前は数多くあった原っぱやハンの木の林などの風景に話が及ぶと、実に懐かしそうです。

 「でもね、住めば都。今でも、近所づきあいがざっくばらんだし、気楽でいいんですよ」

 故郷の風景は変わっても、変わらないのは人情。

 「なんと言っても、荒川は私にとって国のまほろばですから。自分では悪口を言うこともありますけど、よその人間から悪口を言われると、もちろん怒りますよ」

 読売新聞記者・吉弘 幸介
    カメラ・岡田 元章