文筆のマルチタレント―CM〝ぼく、タコの赤ちゃん〟やヒッチ俳句も
「荒川のまちづくりや小説もぜひ」
脚本家以外にも、作詞家、小説家、放送作家、コマーシャルのコピーライターなど肩書は多種多彩。自称「コミュニケーションのスーパーマーケット」と言うのもうなずけるマルチタレントぶりです。
このインタビューの時も、「荒川の人」欄の連載を一冊にまとめた本を手に取り、その中で紹介されている橋幸夫さんや尾藤イサオさんとも、ラジオ番組を一緒にやりましたよ、と懐かしそうに、にっこり。幅広い人脈がうかがえます。
この人を一躍有名にしたのは、何と言ってもテレビのCMでしょう。流行語にもなった「ぼく、タコの赤ちゃん。これから世の中に出ようと思うのです」というコピーは、大変な人気を呼びました。
「劇作家だった叔父の仕事を手伝う形で、昭和三十年代にラジオやテレビの世界へ入りました。何しろ創成期ですから、学校に行くより放送の現場に行った方が面白い。戦時中に育った少年にとっては、全くの別世界でした」
庶民から見れば、今以上に華やかだった放送界。その一線で目ざましく活躍しながらも、原点には幼時を過ごした荒川があったと言います。
「三歳ぐらいの時、浅草から尾久に越して来て、昭和十七、八年、小学四年のころ北区へ移るまで、荒川で暮らしました。世の中に目覚めるころというか、僕の原風景は荒川ですね」
当時の家の近くには、有名な阿部定事件の現場もあったとか。
「周りに色街のような家が多く、友達の家に行くと、芸者さんが『坊や、こっちにおいで』と、かわいがってくれました。思えば、あのころが一番もてたなあ」
当時は「王子電車」と呼んでいたという都電荒川線の思い出も尽きません。
「僕が小さいころは、電車の最前部にネットがあったんですよ。子供が線路に入ってくると、ネットですくい上げるんです。びんの王冠を線路上に置き、車輪で押しつぶしてメンコにしたり。その度に電車が停まっては、路地裏に逃げ込んでいました」
そんな下町への執着が高じて、雑誌「東京人」の連載を初め、仕事で区内を訪れることも多いそうです。
「僕は『五千円旅』と言っているんですが、わずかな交通費で電車やバスを乗り縦ぐ小旅行によく出かけます。先日も、今住んでいる練馬から孫を連れて都電荒川線に乗ったんです。『チンチン電車だよ』と言ったら、本当にチン、チンと音が鳴ったので孫は驚いていました」
ヒッチハイクならぬ 「ヒッチ俳句」と称し、区内のあちこちを訪ねて句を詠んでいます。例えば─。
「尾久の名は小異・越具・奥と地史にあり」
「若きママの尻たくましく三の輪行」
「連弾のピアノよ小台橋小学校」
最近は時代小説に仕事の比重を置き、「荒川を舞台にした作品も、ぜひ考えたい」と目を輝かせます。また、自治体の依頼でまちおこしに一役買うことも多いためか、荒川のイメージアップにも意欲を見せています。
「まちづくりは、建物を作ることではなく、人作り。良い人が住んでいる所が、一番良い環境になるんです。ぜひ、荒川区についても、そんな仕事をさせていただきたい。そうしないと、僕も古里に帰れないじゃないですか」
年齢を感じさせない若々しい瞳には、子供のころに遊んだ荒川の風景が一杯に広がっているようでした。
読売新聞記者・多葉田 聡
力メラ・岡田 元章