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No.104  牧野 徑太郎(まきの けいたろう)

詩・同人誌60年、貫く反骨
初の小説「戦場のボレロ」―泰緬鉄道工事で捕虜救い厳罰に

牧野徑太郎(本名:忠雄)さんは、昨年、小説「戦場のボレロ」と四冊日の詩集「翁草」(皆美社)を刊行しました。師である中谷先生より小説を書く許しを得て処女小説「戦場のボレロ」を書き始めたとき、古稀を過ぎていました。十六歳で詩人萩原朔太郎の門を叩いてから六十年、まことに悠々と文学の道を歩んできました。

「自分で書くことよりも、むしろ、新しい才能を見つけて世に出すことのほうが、性にあっていたね。同人誌は随分やりました。たくさんの仲間や後輩たちが認められ、世に出ていきました」

朔太郎が資金を出した同人誌「帰郷者」が手始めで、「まはろば」には林富士馬や若き日の三島由紀夫、「プシケ」には伊藤桂一や世耕政隆、故富士正晴らが集まりました。

「三島はまだ学習院の生徒だったかな、いつもきちんとした人で、家に来てもひざを崩したことがなかった」

現在も牧野さんが発行人を務める雑誌「新現実」創刊には、庄野潤三や故大木実、麻生良方らが作品を書いていました。無名だった近藤芳美、寺山修司の短歌五十首を一挙掲載して注目を集めたのは、雑誌「短歌研究」の編集長(次長に中井英夫)時代のこと。

文学にのめり込むきっかけは、中学生時代に読んだ萩原朔太郎の詩でした。

「なんとか自分の詩を見てもらいたいと、朔太郎の家を訪ねたが、追い返されましてね。女中さんを通して『僕は弟子はとらない。お帰んなさい』と、はじめはにべもなかった」

それにもめげずに日参し、三年後にやっと一篇の詩を認めてもらう経緯は、『翁草』のあとがきに詳しく書いてあります。昭和十二年、日華事変が始まり、日本社会があの戦争に向けて大きく傾斜していく時代でした。

しかし牧野さんは、文学青年がいつの時代もそうであるように、世間の動きに対していささかシニカルで反抗的だったようです。

「当時、『贅沢は敵だ!』というスローガンがあちこちに書いてありましてね、ぼくはそれにちょっと悪戯をした。『敵だ』の前に『す』を書き加えちまったんだ」

『贅沢はす敵だ!』

ご当人は詳しく語りたがらないが、この悪戯で実はかなり厳しい処分を受けたようです。その反骨精神は、昭和十八年の学徒出陣で兵隊にとられてからも時に、発揮されました。

派遣先のインドシナで、映画「戦場に架ける橋」で有名な 「泰緬鉄道」の建設に従事しました。作業に使った連合軍の捕虜を監督する立場でしたが、捕虜を「処分」せよ、という上官の命令に抵抗して軍の刑務所に入れられました。小説「戦場のボレロ」は、その時の経験をもとにしています。

牧野さんの応接間には、版画家棟方志功の作品がたくさん飾ってあります。無名時代の棟方と「酒場で知り合い」、牧野さんの父親がいたく気に入って、親交を深めていったそうです。

現在の東日暮里四丁目にあった実家は、当時「御殿」とも呼ばれた豪邸でしたが、その後火事で焼失しました。

荒川に育ち、いまも荒川区に住む牧野さんですが、町の様子は大きく変わってしまったといいます。

「根岸との境に音無川が流れていて、川向こうには落語家の林家三平がいたな。ぼくより少し年上だったけれど。川の水もきれいで、魚を釣ったり泳いだりしてよく遊んだものです」

釣りはその後も趣味として続いているそうで、自宅廊下の壁際には、飴色をした見事な和竿が数十本も並んでいました。

読売新聞記者・長山 八絋
カメラ・岡田 元章