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No.100  小島 功(こじまいさお)

大人の笑いに心ひかれ
"原点"は荒川、ダンディーな69歳

「荒川の人」百人目にふさわしい人。現代の美人画家と言われる小島功さんを、世田谷区のアトリエに訪ねました。玄関脇にはお得意の美女のレリーフが飾られ、ひと目でそれと分かります。六十九歳とは思えぬ、ダンディーな風貌が印象的でした。

「生まれは浅草。父が洋服屋で、戦時中は軍服の下請けをやっていたんです。工場と人手を確保するため、十歳の時、尾久の小さな借家に移りました。工場は荒川車庫の近く。飛行機の被いも縫っていたなあ。それをかぶって遊んだのを覚えていますよ」

尾久西小学校に適い、遊園地で泳いだり、都電で赤羽や浅草に足を伸ばしたり。「あのころは楽しかった」と目を細めます。「当時の尾久は、本当に下町というか、家の前で冬はみそおでんを売っていたし、駄菓子屋も多かった」

九人兄弟という大家族の長男でした。「弟や妹の世話をするのは当たり前でした。今でも、子供は見るのもイヤですね」と苦笑します。

小学校六年の時、乾性肋膜炎にかかり、家で療養生活を余儀なくされます。「肺病になるおそれがあったので、親が大事にしてくれました。そもそも、それが文弱になったきっかけですね(笑)。父の講談本や世界文学全集などを乱読していました」

そんな小島少年の心をつかんだのが、当時人気だった横山隆一、近藤日出造、杉浦幸雄といった大人漫画家たちでした。彼らは「漫画集団」というグループを結成、独自に月刊誌も出す勢いでした。

「そのころは十六歳くらいで、大人の世界、大人の笑いというものが新鮮だった。絵も好きだったし、感覚が合ったんだと思います」

家業を継ぐと周囲に思われていただけに、「漫画家になりたい」と両親に言うと大反対。それでも小島少年はあきらめません。理由の一つに、戦況の悪化がありました。同級生が次々と戦車兵や航空兵になったり、予科練に行ったりしていました。「だんだん出征の年齢が下がってきましたから、どうせ死ぬんなら、好きなことをしたいと思ったんです」

小学校の恩師でもある洋画家の大河内幸俊さんに相談すると「黙って五年間、石膏デッサンをやりなさい」というアドバイス。小島さんは、現在の文京区春日町の川端画学校に最年少で入学を許され、そこで漫画家の加藤芳郎さんらと親交を結びます。

「学生がお金を出し合って、ヌードモデルのデッサンをやるんです。傍らは子供だったから、私ずかしくてね。その後、こんなに女性を描くことになるとは思わなかったねえ」

そして空襲・・・・。十八歳の時でした。焼夷弾で尾久の家は焼け、川端画学校もなくなりました。「子供のころの思い出は、ほとんど荒川」という心の故郷は、地上から消えてしまいました。

しかし、それは小島さんが、戦後、漫画界きっての売れっ子として活躍する新たなスタート地点でもあったのです。その流麗な線、お色気あふれる女性キャラクターが二十歳代から注目され、週刊アサヒ芸能に連載中の代表作「仙人部落」は昨年二千回を突破。現在、日本漫画家協会理事長として、五百人の会員を束ねています。

「どうして下町で育った僕が、しゃれた味の大人漫画に向かったかって?(しばらく考えて)漫画というのは、空想の世界から入っていくからね。やはり、まわりの現実とは違った世界を求めるんじゃないだろうか」

それならば、やはり小島さんの″原点″は荒川ということになるのでしょう。

読売新聞記者・石田 汗太
カメラ・岡田 元章