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No.92  小松崎 茂(こまつざき しげる)

『地球SOS』『大平原児』絵物語で爆発的人気
「子供には天国だった」南千住

千葉県柏市のご自宅を訪ねると、正子夫人が笑顔で出迎えてくれました。『地球SOS』『大平原児』などで、戦後の子供たちに夢を与え続けた絵物語の大御所。八十一歳という年齢を感じさせない張りのある声で、ふるさとを語ってくれました。

大正四年、東京府北豊島郡南千住町三ノ輪(現・南千住五丁目)生まれ。父親の要次郎さんは造花職人でした。

「田舎のような良さのある町でしたね。瓦屋根の木造家屋ばかりでね。大きな紡績工場があって、非常に庶民的な、職工と職人の町でした。貧しくても真面目な人が多かったね。子供にとっては天国のようなところだった」と目を細めます。

「浅草の観音様にお賽銭拾いに行って、お坊さんに追いかけられたり、ヒョウタン池で鯉を釣ったり、バッタはいるしトンボはいるし、銭がなくても十分遊べたんです。どこもかしこも木があって、自然が残っていました。それに比べて、今の子供はかわいそうだねえ」

大正十二年には、関東大震災も体験しました。第二瑞光小三年生の時です。「家で寝転がって、雑誌を読んでいたんです。すると、海鳴りのようなゴーツという音がして、ドカーンと突き上げてきた。家族みんなで家の心柱にしがみつきました。向かいの家は倒れましたが、うちは倒れなかったんです」

十六歳で日本画家に弟子入りし、二十代始めに新進挿絵画家としてデビュー。戦争中は徴用にとられ、谷中のアパートに居を移します。

昭和二十年三月十日夜。そのアパートから見えたのは、B29の来襲で炎に包まれる生まれ故郷の姿でした。東京大空襲です。

「二階の窓から見ると、荒川区は一面、紅蓮の屏風みたいでね。とにかく飛び出して、三ノ輪の方に駆けてった。道の両側で炎が渦を巻いていて、『危ない』と止められたけれど、そこにあったモッコを防火用水にひたして、かぶって走り抜けたんです。常磐線のガードを抜けた途端、だーっと、焼け跡が真っ平らの荒野のようで……」ふるさととの悲しい別れでした。

戦後すぐの昭和二十年代、少年雑誌に絵物語ブームが訪れると、仕事が殺到。『少年ケニヤ』の山川惣治さんと人気を二分する超売れっ子になりました。「三日眠らず、目の前に虹が見えた」こともあったそうです。

やがて、漫画ブームの台頭で絵物語は急速に姿を消しますが、代わって口絵やプラモデルの箱絵などの仕事が来るようになり、シャープで緻密なタッチの「小松崎メカ」は昭和五十年ごろまで、息長く愛され続けました。

九五年一月、柏市の自宅が失火で全焼、数万点の作品や資料が焼失しました。しかし、散逸した原画などを大事に保存していたファンが「『小松崎茂美術館』を作りたい」といくつも名乗りを上げています。画集も出版され、再評価の動きが盛んです。

「ときどき、電車で南千住を通る時がありますが、涙が出るほどなつかしいなあ。街はすっかり変わってしまったけれど、実は今でも帰りたいくらいなんだよ」

現在も筆をとり続ける小松崎さんの心の中には、少年の頃の庶民的エネルギーに満ちた南千住が、生き続けているようでした。

読売新聞記者・石田 汗太
カメラ・岡田 元章