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No.89  清水 正夫(しみずまさお)

樹子夫人と50年、世界に飛躍
三河島育ち…「永久区民です」

港区南青山にある松山バレエ団三階の応接室。二時間にわたって話を聞きました。

「生まれは三河島五丁目です。家は農家で、三河島菜をたくさん作っていました。兄が二人に姉が一人。父は三河島町の収入役でした。私は第二峡田小学校から郁文館中学に進みましたが、荒川放水路の中洲に舟で渡って水たまりで泳ぎ、野球、柔道が好きでした。勉強は苦手でしたね」

大学は日大工学部土木工学科へ。さらに東大工学部の建築学科で学びます。

「当時は土木に人気がありました。でも目標があったわけじゃなかったんですよ。学生時代は絵を描き、応援団長でもありました。非常に現実的なことを学ぶ一方、信仰を持っていた父親の影響を受けて、仏像が好きでした。しばしば法隆寺に行ったものです」

卒業後は内務省入り。一級建築士・国土局の技官として茨城県庁勤務になります。そこで労働闘争に青春のエネルギーを注ぐ一幕もあり、人生に疑問を抱きます。

「内的な部分です。仕事を通して『川は生き物』ということなどを学びましたが、今ひとつ精神的な満足感を得られる生き方はないものかと」

そこからバレエとのかかわり合いが始まります。戦前から、友人の勧めで有楽町にあった日劇で舞台を見続けてきました。その友人の紹介で知り合ったのがスターだった松山樹子さん。戦後の一九四七年に松山さんと結婚しましたが、その樹子さんを補佐しようと退職、青山にあった幼稚園を借りたスタジオを発展させて、二人でバレエ団を設立することになります。

樹子さんを主役に「白毛女」「祀園祭」「虹の橋」などの作品を手がけます。「夢殿」という作品も上演し、日本の創作バレエの草分けとして高く評価されました。

以後も「白鳥の湖」「ジゼル」「くるみ割り人形」「コッペリア」などの大作を上演し続け、海外公演も多く行っています。

その海外とのかかわりで最も深いのが中国。あちらで制作した映画「白毛女」を見てバレエ化したことが緑になり、一九五八年以来、十回の訪中公演を行いました。

「私は約四十年間に百一回、中国に行きました。総勢二百八人の上海バレエ団を招いたこともあり、今も応援を続けています。松山バレエ団では二人の中国人ダンサーを受け入れていますが、ともに頑張っています」

日中友好協会全国本部副会長、北京大学と清華大学の客員教授のほか、幾つかの交流団体の役員を務めていることに中国への思いが象徴されています。

「中国という国は我々の『先生』だと思っています。習慣、儀式、そして音楽。日本の文化の源があります。いまその研究に打ち込んでいます」

松山バレエ団は、七十五歳の清水さんが財団法人の理事長兼団長、妻の樹子さんが芸術監督、一人息子の清水哲太郎さんが総監督を務め、その妻で「世界のプリマ」と呼ばれる森下洋子さんと五人の若手プリマ、百人の団員を擁し、年間に六十回から八十回の公演を開く大規模な組織です。七月十日には、サンパール荒川で「コッペリア」を上演します。

「私の故郷である荒川区にはバレエ団の支部があります。私自身は『永久区民』の意識です。九十四歳の長兄は健在、次兄の満之助が都電の『荒川区役所前』近くで清水医院を営んでいる縁もありますから。今回は素晴らしい舞台をお見せしたいと張り切っています。ぜひご覧いただき、日本のバレエ発展に力を貸してください」

読売新聞記者・寺村 敏
カメラ・岡田 元章