トップ   >  荒川の人  >  No.88

No.88  泉 昭二(いずみしょうじ)

幼い頃から漫画への夢
「ホッとする懐かしい家並み」

インタビューの場所は、京成町屋駅前の町屋文化センター。「ちょうどこの建物の場所に、私の生まれた家があったんです」。懐かしそうな笑顔がこぼれました。

子供向けの「朝日小学生新聞」の連載漫画「ジャンケンポン」は二十七年目を迎えました。六十三歳のベテラン。週六日の連載は、何と八千回を超えています。小学五、六年ぐらいの女の子「ジャンちゃん」、三、四年ぐらいの男の子「ケンちゃん」、幼稚園に通う男の子「ポンちゃん」の三人を、ほのぼのと描いた四コマ漫画です。

「三人の子供にふさわしい名前はないか、と探しているうちに思いつきました。日本全国どこへ行っても通じますからね」

漫画家を志したのは、第九峡田小学校に入学する前。五十年前の戦争の、さらに以前までさかのぼります。

「絵を描くのが大好きで、自分で紙芝居を作っては、近所の子供たちに見せたりしていました。でも、漫画家の地位が認められていない時代。漫画を描きたいとは、両親にも言えなかった。中学一年で終戦を迎え、好きなだけ漫画を描けるようになったのが、うれしかったのを覚えています」

中学時代は、友人二人と漫画の同人誌をつくりました。当時描いていたのは、社会風刺の一枚漫画。銀座を歩き回ってルポしたこともあり「ずいぶん生意気でしたね」。作家の吉行淳之介が編集していた雑誌に作品を投稿し、原稿料をもらったのが、漫画で稼いだ初めてのお金だったそうです。

「当時は尾竹橋周辺へ出かけ、四本ある『お化け煙突』をスケッチしたりしました。見る角度によって、本数が違って見えるんです。近所の路地もよく描きました。山あり川ありという自然に恵まれた土地柄ではないので、いつの間にか人間に眼が行ったのが、漫画を描くのに役立ったかもしれません。面白いおじさん、おばさんが大勢いましたからね」

法政大を卒業後、しばらくサラリーマン生活を送りましたが、夢を捨てきれず、漫画家養成学校に入学。講師の紹介で新聞の連載漫画を始めたのが転機となりました。

「子供向けの新聞に漫画を描いてみないかと言われた時は、さすがに戸惑いました。『一か月も続けば』と思って始めたのに、ここまで来てしまいました」

子供が面白いと思う漫画を描くコツは「子供の発想をしないこと」だと言います。

「子供は、自分と同程度の発想だと思うと、かえってバカにするんです。子供にこびてはいけない。子供の目線に立つことは大切ですが、子供よりちょっと上の発想をする方が良いようです」

二十年以上も連載する間に、子供の生活も変わりました。

「初めは竹馬遊びも描きましたが、最近はファミコンですね。でも、主人公以外の子は塾に通わせても、ジャン、ケン、ポンの三人は塾に通っていないんです。小さいうちは大いに遊んで欲しい、という願望でしょうか」

このほかにも漫画の依頼は多く、地方紙に連載したり、一コマものを描いたりしています。

現在は杉並在住ですが、銀座に出た時など、ふと、荒川を訪れることもしばしば。

「昔ながらの家並みを見るとホッとします。地元の人は『変わった』と言いますが、全然変わっていない。優しくて親切で。でも、ここに住むと、懐かしさにおぼれてしまうかな」

「ふるさと」への愛着にあふれるインタビューでした。

読売新聞記者・多葉田 聡
カメラ・岡田 元章