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No.84  白井 義男(しらいよしお)

捨て身の"弱虫"が世界王者に
小六でカンガルーに反則勝ち

昭和二十七年五月十九日の後楽園球場特設リング。観客四万人。その中で、世界フライ級チャンピオンのダド・マリノを破り、日本人として初めて「世界一」のタイトルを手にし、戦後の日本人に夢と勇気を与えた白井さん-。それから四十数年、財団法人日本ボクシングコミッション理事で、今秋勲四等旭日小綬章を受章しました。今も代々木の「白井・具志堅スポーツ・ジム」名誉会長として後進の指導に当たっています。そのジムの一室で。

「生まれたのは旧三河島六丁目です。第一峡田小学校に入って、五年生の時に第六峡田小学校というのが出来て、そこに移り、第一荒川高等小学校に進みました。小学校五年までは本当に弱虫でした」

今で言う「いじめ」の被害者側。「同じクラスに強いのがいましてね。いつも何かを買って渡さないといじめられる。だんだんお金がなくなって、仕方ないから先生に訴えたら、その先生が『男なら闘ってみろ』という感じで、けしかけるわけですよ。もう一人弱虫がいたのですが、二人もいて一人に対抗できないのか、という意味だったのでしょうね。つまり、けんかの勧めです。昔は剛毅な先生がいたものです」

ある日の放課後。その「決闘」は学校近くの野原で行われました。

「相手は二人一緒でも構わないといった態度だったのですが、男らしくというので、まず僕が挑戦しました。『闘えるだけ闘おう』と捨て身の挑戦でした。無我夢中でぶつかって左四つになり、やあっと声を発したら、相手が足元に倒れていました。結局、その相手とは仲良くなりましたが、その時に、闘いに対する自信が生まれました。そして、運動嫌いの僕が相撲、野球、剣道とスポーツを始めるようになったのです」

荒川での思い出話が続きます。これは六年生の時-。

「学校の前の広場にサーカスがやって来ましてね。『カンガルーを相手にボクシングで戦う』という余興がありました。友達におだてられて、それに挑戦したんです。初めてグラブを手にしましてね。右手をほおに付けて、左手を目の位置に、ひじを体に付けるように締めて、戦いましたよ。真剣に。でも、こいつが実に強い。カンガルーがフリッカー・ジャブを繰り出してくる。僕もすきをとらえて何発か打つと、『キュー』と声を上げて退去する。でも、ちょっと油断したすきに尾で体を支えて反撃、強烈な一発が僕の急所に入りました。ボクシングでは下半身の攻撃は違反ですから、結局は僕が反則勝ち。ボクシングとのかかわりはここからでした」

昭和二十三年。白井さんはボクサーを目指して銀座のジムで練習中、GHQに勤務する生物・生理学者でボクシング指導者のカーン博士に認められて指導を受け、翌年、フライ級、バンタム級の二つの日本タイトルを奪った後、世界チャンピオンとなり、四回防衛しましたが、ベレスに敗れ、昭和三十年に引退しました。

それから四十年の歳月が流れました。グリーンに赤い線の入った背広を着こなし、カルチェのスポーツ・ウォッチ、フェラガモのネクタイをするおしゃれな七十二歳の川崎市住まい。

「すこぶる健康」だそうで「年が明けたら、昔は弁当持って泳ぎに出掛けた尾竹橋あたりの荒川にでも行ってみましょうか。今になって思うと食糧がなかった時代が妙に懐かしいですねえ」と、思い出話は尽きませんでした。

読売新聞記者・寺村 敏
カメラ・岡田 元章