運動万能の韋駄天少年
尾久なつかしむ、樫尾兄弟の三男
家庭用の電卓をはじめデジタル時計などエレクトロニクス技術で業界をリードする「カシオ計算機」。七年前から社長をつとめる樫尾和雄さんは、昭和四年、尾久の生まれです。生家は荒川遊園の近くでした。
当時の尾久の辺りは、まだ自然がいっぱいで、荒川の水も泳げるほどきれいでした。後田尋常小学校(現在の第七中学校)に入学した樫尾さんは、運動神経抜群の腕白な少年でした。
「とにかく走るのは速かったですね。あのころ、区内に十校ほどの小学校があって、各校の運動会には他の学校がリレーの選手を送って対校戦をしたものです。優勝すると主催校の校旗を持ち帰れるしきたりでした。私はずっと第一走者、スタートをつとめましてね、いつもトップでバトンを渡した。六年生の時は、ほとんどの学校の校旗を集めてしまいました」
運動会荒らしの「韋駄天の樫尾」は有名だったといいます。「まあ、足の速さでは荒川区で一番だったでしょう。近隣の同じ年代で、私の名前を知らない人はいなかったですね」と笑って回想します。
走ることだけではなく、相撲も水泳も得意でした。
「当時は夏祭りには必ず相撲大会がありました。五人抜きをするとスイカなどをもらえましてね。これも、あちこちの神社や広場の土俵に飛び入りして、ずいぶん賞品をもらったものです」
荒川での水遊び、原っぱでのメンコ、こま遊び。真っ黒になるまで表でとび回っていた腕白少年にも、やがて戦雲の影がさしはじめます。昭和十七年には、荒川上空にも本土空襲の米軍機が姿を見せるようになりました。
「空襲警報が出るとみんな防空壕に駆け込んだけれど、私はたいがい家の屋根に登りました。晴れた日はB29がよく見える。自分に向かって真っ直ぐ飛んでくる時はあぶないが、少しでもずれていればまず大丈夫なんですね。悔しいことに、日本の飛行機が迎撃に行って逆に墜とされるのを何度も見ました。そのうちに迎え撃つ飛行機も飛ばなくなりましてね・・・・」
空襲が激化した同十九年に埼玉県に疎開。その間に自宅は焼失しました。戦後は三鷹市などに居を構えましたが、荒川で過ごした少年期の体験は、その後の樫尾さんの人生に大きな財産を残したということです。
「あの時代の、ハングリー精神というのか、何くそという闘争心のようなもの、それはいま事業の上で大変役に立っていると思いますね」
後田尋常小学校も戦災で焼けたが、今も年一回、開かれる同窓会で、旧友と顔を合わせるのが楽しみだという。
戦後、父、兄が創設した「樫尾製作所」に入所、昭和三十二年、現在の「カシオ計算機」設立後は、四人の兄弟が独自製品の開発・販売に協力して会社を発展させてきました。業界で「樫尾四兄弟」といえば有名です。和雄氏は三男。同六十三年に兄の後を継いで社長に就任しました。
二十年ほど前、小型電卓「カシオミニ」をヒットさせました。この製品の発想の元になったのが、当時しばしば楽しんだボウリングだった、といいます。スコアなど身近な数字を計算できる手軽な電卓-というわけです。
「生まれ故郷ですから、荒川はとても懐かしい。時々、車で行くんですよ。ああ、この辺りに家があったんだなあと、実に懐かしい気持ちになります」
かつての腕白少年は、いま日本のハイテク輸出産業の一翼を担って活躍しています。
読売新聞記者・長山 八紘
カメラ・岡田 元章