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No.81  阿部 光利(あべ みつとし)

懐かしい<荒フィル>の人々
「路地裏のひまわり」を目標に

二十七歳ごろから六年間、東日暮里に住んでいました。特に印象深いのは、荒川区民フィルハーモニー合唱団のこと。「荒フィル」の愛称で知られるこの合唱団に所属していたのは、三十代の初めごろでした。区報などで恒例の「第九」コンサートを知り、参加してみようかなと思ったそうです。

「木曜の夜、仕事を終えた後に皆で集まって練習しました。町工場から駆けつける人や夕食の用意を終えてから通う主婦の方を見ていると、忙しいからと言って欠席できないなと思いました。練習後は一緒にお洒を飲んだりして、いろいろな職種の人と知り合うことができました」

現在は朝のワイドショー番組のリポーター。事件、事故の現場などでさまざまな人を取材するだけに、合唱団での体験が役に立つことも多いそうです。

「指揮者の佐藤一昭さんの指導は、歌詞のドイツ語に日本語のルビを書き込んではいけないというものでした。ドイツ語を習ったこともないような方が必死で練習している姿が忘れられません。区の姉妹都市である埼玉県荒川村に泊まり込む夏合宿も楽しみの一つでした」

今も連終を取っている当時のメンバーもいて二、三年前にサンパール荒川で開かれた定期演奏会では司会も務めました。

テレビの仕事をするようになったのは、先日亡くなった声優・城達也さんの渋い声にあこがれていたのがきっかけだと言います。会社勤めや自営業を経た後、ナレーションの仕事をしたのが最初でした。三十歳ごろから、民放各局のワイドショーでリポーターを務めるかたわら、ドラマやCMにも度々出演するようになりました。「おはようノナイスデイ」 のリポーターになったのは今年四月。ちょうど、オウム真理教への強制捜査の真っ最中でした。

「毎日のように山梨県上九一色村に張り詰め、一か月半ほど休みが無かったこともありました。麻原彰晃代表が逮捕された五月十六日は、前日から二十八時間連続の張り込み。五年以上もオウム問題を追いかけてきただけに、ようやく自分のやってきた事に決着がついた感じがしましたね」

今も事件、事故の取材で全国各地を飛び回り、睡眠は一日二、三時間のことも。そんな時はリポーターの大先輩で、現在はワイドショーのキャスターを務める東海林のり子さんの、「他人よりチョットだけ頑張ればいいのよ」という助言を励みに、寝不足に耐えているそうです。

荒川に住んでいたころは、合唱団のほかにも、目の不自由な方のために本を朗読し、テープに録音するボランティア活動などにも積極的に参加していました。

「自分に何かできることはないか、何かの形で社会に貢献したいという意識が、特に強かったころでした。リポーターの仕事が結局、個人の能力が問われる仕事だけに、合唱団やボランティアなど、集団で何かをしたいという気持ちが強かったのでしょう。今にして思えば、荒川区は福祉が充実していたし、自分自身も楽しかったですね」

引っ越して来る前は、六本木や横浜に住んでいただけに、この町の庶民的な良さも忘れ難いそうです。

「皆さん気さくで、ふるさとに来た感じがしましたね。『路地裏のひまわり』と呼ばれるようなリポーターになるのが目標なのですが、そう思い始めたのも、荒川に住んでいたからかもしれません」

読売新聞記者・多葉田 聡
カメラ・水谷 昭士