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No.80  中川 緑(なかがわ みどり)

楽しかった合唱隊時代
温かい町、渡邊先生の思い出

小学三年生から卒業まで、東京荒川少年少女合唱隊に所属していました。NHK「みんなのうた」の録音や公開番組への出演、海外や地方への演奏旅行など、合唱隊の活動は活発でした。

「副指揮者の宮下静江さんが父と同じ会社に勤めていた関係で、合唱隊の事を知りました。ピアノを教えていた母の影響もあって歌が大好きだし、一人で歌うよりもみんなで歌った方が楽しいと思い、合唱隊に入りました」

当時住んでいたのは千葉県松戸市。授業が終わると同級生と一緒に電車で練習に通いました。場所はJR日暮里駅から歩いて十分ほどの第四日暮里小学校。練習は午後八時半ごろまで続くため勉強をする時間も少なく、宿題は電車の中で片づけたのを覚えています。

「公演や録音が近づくと毎日が練習。厳しくて、辛くて、眠くて…。お腹も空くので、帰宅途中に友人と二人で駅の立ち食いソバを食べるのが楽しみでした」

合唱隊の制服を着て日暮里駅などに集合すると、町の人から「きょうはどこへ行くの」と、よく声をかけられたそうです。

「忘れ物が多くて、電話ボックスに、よく財布を置き忘れたのですが、住所と名前を書いてあるので、必ず自宅に連絡してくださいました。町の皆さんが守ってくれているんだな、と感じましたね」

合唱隊の〈仕事)で、しばしばテレビ局に出入りしていましたが「まさか自分がそこで働くとは思っていなかった」NHKへ入局。すぐに大阪放送局へ赴任し、ニュースや「きょうの料理」、深夜の若者向け番組などを担当しました。

「最初は、東京と同じ大きな街だなという印象でした。でも、番組の収録先で雨に降られると『ネエちゃん、カサ持ってきや』と、何度も優しく声をかけてくれるんです。浪花節の世界って、今もあるんですね」

一昨年東京に戻ってから今年三月までは、朝の情報番組「くらしのジャーナル」の司会を担当。一月の阪神大震災の際には関西勤務の経験を買われ、その日のうちに大阪へ飛びました。

「大阪のスタジオから現地と結んで放送しましたが、こんな近くまで来ながら、神戸の現場へ行けないことが歯がゆかった。取材でお世話になった人も大勢いるのに」

しかし、その後、東京へ戻ってから地震関連の特集を放送した際には、大阪時代に知り合ったボランティア関係者が出演してくれるなど、当時の人脈が大いに役立ったそうです。

現在は「今夜はあなたとミステリー」のリポーターや、ラジオ第一の「人生三つの歌あり」のインタビューなどを受け持っていますが、今でも時々思い出すのは合唱隊時代の事。「大っきい先生」と呼んでいた指揮者の渡邉顯麿さんから、背中を丸めていると「せなか-ッ」、キョロキョロしていると「目ッ」と、厳しく注意されたことです。
「しつけは、すべて合唱隊で学んだようなもの。先生はよく『十年後、二十年後に隊員の心によみがえることを願って』と話されましたが、今の自分を見越して言ってくださったのだなと感じます」

福祉関係の番組に携わる機会が多いのも、合唱隊で障害者施設や老人ホームをたびたび訪ねた経験が原点なのかもしれない、と思う事もあるとか。将来は、ナレーションの仕事などにも挑戦してみたいという二十九歳。飾らない、熟のこもった語り口が印象的でした。

読売新聞記者・多葉田 聡
カメラ・水谷 昭士