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No.77  出口 裕弘(でぐち ゆうこう)

東京の路地、散策大好き
気風があり、なつかしい荒川

フランス文学者にして作家でもある出口さんには、もうひとつの顔があります。それは、東京という都市を歩く「大散策者」の顔です。今でも暇をみつけては、いえ、暇のないときにも東京の路地から路地へさまよい歩きます。本人の言を借りれば、あたかも「生身の女とつきあう」ように。

先年刊行した「ペンギンが喧嘩した日」(筑摩書房)や「ろまねすく」(福武書店)などの著作には、東京の愉しさ、不思議、懐かしさが陰影ふかく描かれています。

その出口さんの原風景は下町、とりわけ三河島や日暮里の辺りにあるそうです。

「どこか貨物駅の構内のようなところで、ぼくは三輪車をこいでいました。その時びゅうと風が吹いて、すぐわきに高く積まれた荷物が、ガサガサ鳴ったんです。とたんに、荷の山が崩れてくるような恐怖におそわれましてね・・・・・・四つ五つのころの、古い記憶です。あれは多分、三河島の駅だったんじゃないかなあ」

記憶中枢のいちばん奥に焼きついたままの、セピア色の写真のような風景、音。現在は東京の西部、調布市に住む出口さんが、しばしば隅田川の界隈を歩くのは、そんな遠い風景に招き寄せられてのことかもしれません。

出口さんは、昭和三年、当時の北豊島郡日暮里町に生まれました。いまの荒川区東日暮里です。ここで育ったのは学校に入る直前まで。小学校は葛飾区の堀切小学校でした。しかし、映画と本が大好きな少年だったので、荒川区内にたくさんの思い出があります。

「子供のころ、千住大橋のたもとに大橋館、北千住には金美館なんていう映画館がありましてね、随分入りびたったものです。くだらない映画ばかりみてましたが。神田・神保町の本屋街にも通いました。千住大橋から都電に乗り、三ノ輪橋を通って岩本町、神保町というコース。料金はどこまで行っても七銭、安かったなあ。まあ、昭和の十年代の話ですが」

都立十一中から旧制浦和高校、東大仏文科に進み、その世界は広がっても、荒川区は出口さんにとって特別の土地だったようです。

「三ノ輪橋駅前の商店街、今でもいい雰囲気ですねえ、大好きな場所です。それから、京成電車が町屋で都電の荒川線と交差する辺りも、まるで映画のセットみたいね、面白いじゃないですか立体的で。町屋には、おじきが住んでいたのでよく行きました」

とはいえ、自己の原風景や感性の源をたずね、その郷愁や情感を直に小説化することはしない。構成的でロマネスクな知的な作品が、出口文学の神髄なのですから。

東京論の第一人者である出口さんは、もちろん下町だけでなく、東京中を歩いています。その視点で見た荒川区はどんな土地でしょうか。

「う-ん、面白い場所なんです、位置的にも、歴史的にも。ある気風があるでしょ、浅草のような盛り場じゃないし、一種シーンと静かな感じがあって…。もっといろいろなアングルから検証してみたい土地ですね」

下町をいつか自分流の小説に書きたいと考えているようです。というより下町が出口さんに書いてもらいたがっている、と言うべきでしょうか。出口さんは、その誘惑に抗しているようにも見ぇます。

「実は、去年から何回も独りでこの辺を歩いているんです。生きものの帰巣本能のようなものかな。汐入の高いビルから、隅田川の大湾曲を眺めたくなりましてね」

インタビユーが終わって外に出ると、谷中の墓地の桜が満開でした。薄暮の花の下では、旧知の吉本隆明さん一家が、出口さんの到着を待っていました。

読売新聞記者・長山 八紘
カメラ・水谷 昭士