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No.73  太田 裕美(おおた ひろみ)

弾き語りのアイドル
思い出遠く、今<母親>に没頭

荒川区に生まれ、三歳まで育ちました。

「東尾久でした。記憶は少しですが、あります。おうちがね、ガバンみたいなものを作っていましてね。そばにあった川が今になって思うと隅田川だったのですね。小さなころは大きな海だと思っていました。その海をお船が通っていましてね。工場の従業員の人が肩車をしてくれて、堤防でお船を見せてくれた……。何だか懐かしいなあ……」

その後、写真などを見て出来上がった「思い出」「体験」は次のようなものです。

「ポンポン船でしょ。荒川車庫という言葉でしょ。チンチン電車にお祭り。それぐらいかなあ。下町をエンジョイしていたのですね。私は」

荒川から埼玉県の春日部へ越したのは「父が、ガバン作りから、包装、パッケージ用品を作る仕事に変わったから」で、武里小から私立上野学園中学の音楽斜へ進みます。

「小学校三年からピアノを習ってましてね。普通科じゃもったいないから音楽科にいこうと、母も自分も思いまして」

十四歳の持、好奇心から渡辺プロダクションが経営している東京音楽学院の試験を受けて合格。「今までクラシックの世界だったでしょ。ここで初めてポピュラー音楽の素晴らしさに触れました」

上野学園高校音楽科を卒業してNHKテレビ番組「ヤング101」のメンバーになり、昭和四十九年に「雨だれ」でデビュー、翌年に「木綿のハンカチーフ」を大ヒットさせました。

今はピアノの弾き語りはそう珍しくありませんが、そのころ「ピアノを弾きながら歌うアイドル」というのは異色中の異色。「普通の歌謡曲じゃなくて、フォークと歌謡曲の両方の魅力を持った曲を歌いたかったんです」

コンサート活動、レコーディング活動を続けた後に六十年に音楽デイレクターの福岡智彦さんと結婚します。男の子が二人。もう五歳と三歳になり、現在は世田谷区住まい。さて一月二十日に四十歳になる今はどんな生活をしているのでしょう。

「完全に母親をしてます。朝は六時に起きまして子供のお弁当を作って、幼稚園への送り迎えでしょ。お洗濯でしょ。幼椎園で厚生部の役員というのをやっていましてね。リサイクル・フェアとか、いろいろ忙しいんですよ」

仕事はラジオのレギュラーが中心。日本テレビの'94キャンペーン・イメージ・ソング「ヴァージンから始めよう」は彼女の作詞・作曲によるものです。

「お仕事は母親としてのものがとてもすてきです。例えば母親役でテレビCMに出させていただくとか、子供に対する母親の愛情あふれる優しい気持ちを歌うなどですね。わたしはもともと楽天家でして、あしたはあしたの風が吹くでしょうという生き方です。昔はニューヨークで生活した体験をエッセイとして書いたりもしましたけれど、今はちょっと。でもまた書きたくなったら書くと思います」

「季節を感じながらお散歩をするのが大好き」だそうで、音楽とのかかわり合いについて「子供たちが母親を必要としない時間ができたらいろいろやってみたい」と考え、「音楽って年齢も国境も越えることができるでしょ。四十代は四十代の、それ以上になっても、その年齢なりのものを作ったり歌ったりしていきたいですね。うん・・・・・・。新しい年も頑張りますよ」と、昔と変わらない子供のような愛らしい口調で話してくれました。

読売新聞記者・寺村  敏
カメラ・水谷 昭士