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No.68  戸田 幸雄(とだ ゆきお)

『子連れ狼』から愛の冒険物語へ
生粋の荒川っ子、戦火も体験

生まれも育ちも況住所も尾久。「一番の古い思い出は戦争でしょうか」と、幼いころのことを懐かしむように語り始めます。

「母の背にしがみつきながら逃げました。焼夷弾(しょういだん)が落ちて家が全焼、おかまの中のお米が真っ黒に焦げているんですね。『かあちゃん、これ食べられるの?』と聞いた記憶があります。一面焼けてしまい、荒川から浅草が見えました」

「食べ物がないでしょ。松戸に買い出しに出掛ける母に付いて行くのですが、その列車の混雑、混乱のものすごさ…で、最後は町屋経由の都電で帰るのですが、今も母の姿と都電の町屋駅が重視して懐かしい思いがします」

少年時代は「わんぱくだった」そうです。

「野球にベーゴマ、メンコにビー玉。戦争のまねをする『駆逐水雷』という集団ゲーム。竹馬に乗って雪の中で戦うといった遊びもしました。隅田川もきれいでした」

尾久西小から区立七中、郁文館高から大学へ進みます。

「中学は野球部、高校は剣道部でした。もちろん映画は大好き。荒川金美館という映画館に通いつめ。小学校四年から中学一年まで新聞配達をして、入ったお金を、映画を見るために使いました。当時見た作品は『鞍馬天狗』『次郎長三国志』などです。嵐寛寿郎にあこがれました」

そのころから映画への思いが膨らみます。大学は、映画の理論を学ぶための東洋大社会学部と実践を学ぶ多摩美大芸術学部に同時入学、結局、多摩美大を出て東映・教育映画部に入ります。

「中学生のころ、映画の照明技師だった兄に買ってもらった八㍉撮影機で、劇映画を撮りました。主人公が突然消えたり登場したりする忍者映画でした。そんな志向だったのですが、仕事は教育映画でしょ。劇場で観客の目に触れる作品の中に名前が掲げられるような監督になりたいと思いましてね」

東映撮影所に移り、ユニオン映画に移籍。映画、テレビ映画の助監督、監督として活躍することになります。製作に参加した作品は「戦国自衛隊」「網走番外地」、「ゴールドアイ」「伝七捕物帖」など。監督としてテレビ作品の代表作は、主題歌も大ヒットした「子連れ狼」でしたが、本当の代表作は劇揚用映画「菩提樹(ピパル)の丘」です。

「ネパールからの留学生と日本人女性の愛の物語です。栗原小巻さん損じるヒロインがネパールに行って、貧しい子供たちのために幼稚園を作ろうとする。人の心を美しく描いたつもりです」

現在の名刺には「日本サンビデオ代表」とあります。監督として知られる名前は「戸田康貴」。今は本名を名乗っています。さて最近はどんな仕事を?

「社員教育用のビデオを作っています。もう百作を超えたでしょうか。『部下の長所の伸ばし方』『笑頗の作り方』など、ほかにもいろいろです。オーディションで俳優を決め、脚本を書いて監督する。教育ビデオと言っても、物語に仕立てると、なかなか面白いのです」

八月三日で五十四歳になる監督。大きな夢を持っています。

「劇揚用映画を何とかもう一作と思っています。映画化されなかった企画ですが、脚本を基に小説を書いていまして、これが間もなく完成します。三世代家族と犬の物語で題名は『愛の冒険物語』。この小説が売れて、これを何とか映画にできればいいなと頑張っています。人の心、愛を大切にした作品です」

読売新聞記者・寺村  敏
カメラ・水谷 昭士