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No.67  光井 章夫(みつい あきお)

音の魔術師"日本のサッチモ"
美しい川、遊び回った思い出

三河島の生まれ。「南千住で三十二歳まで暮らしました。第一瑞光小学校から荒川一中に進みました。勉強は嫌いでしてね。もちろん遊ぶのは大好きでした。小学校三年の時に、そろばんを習い始めましたが、これだけは自慢でした。そのころ三級と言えばちょっとしたもので、商人になろうなどと考えたものです。遊びはいろいろでした。チャンバラ、ベーゴマ、メンコにビー玉。家の周りは工場地帯で、材木屋さんなんかもありましたね。その材木屋さんにある縄を使ったターザンごっこ。ええ、ぶら下がって、アーアーアーと叫ぶ遊びです。野球もやりましたが、キャッチボールまで。でもうまかったですよ」

六十一歳。幼いころの思い出を懐かしそうに話す時の表情は少年のようです。現在の住まいは品川区。マンションの九階から窓越しに海を見下ろしながら話は続きます。

「そろばんを始めたころ、ハーモニカに出会いました。これが、その後歩く道につながることになるのですが、兄が買ってくれましてね。一生懸命に吹いたものです。そうそう、そのころの隅田川はとても美しかったことを覚えています。セイゴやスズキが泳いでいてね。千住大橋のたもとに水泳場がありました」

ハーモニカの次に出会った楽器がトランペットだったそうです。

「すし屋をやっていた親せきがね、楽器を積んだトラックを店の近くで見掛けて、おまえは音楽が好きだから、そういう仕事が向いているんじゃないかと勧めるんですよ。いわゆる『坊や』と呼ばれる雑用ですね。そして働き始めたのが八丁掘にあった駐留軍クラブでして、無給で働きながら、ドラムをやりたいなと思ったものです」

それがトランペットにかわったのは次のような理由からでした。

「僕が十六歳の時にドラムのセットは何と二十五万円もしましてね。トランペットなら二千五百円で買えるというのでトランペットになりました」

夜になると隅田川に向かって練習する日々が続き、やがて十八歳で念願のプロの道に入ります。

「立川の米軍クラブからスタートしてバンドを転々としました。二十歳までに所属したバンドが何と二十五。移るたびに給料が上がるのです」

原信夫とシャープス&フラッツ、ブルーコーツ、スターダスターズなど、一流のフルバンドのスター・トランペッターとして人気を得て「バンちゃん」の愛称で親しまれるようになり、現在に至っています。さてお得意の曲はとたずねてみると「う-ん」としばらく考えて。

「『アゲイン』『セントルイス・ブルース』『ジョージア・オン・マイ・マインド』『オール・オブ・ミー』『サニーサイド・オブ・ザ・ストリート』『ニアネス・オブ・ユー』『スターダスト』というところでしょうか。そう言えば、演奏以外に歌のリクエストも多いですね」

トランペッターがボーカルも聴かせるというのは独特の才能。アメリカではルイ・アームストロングが有名です。彼の愛称がサッチモ。言ってみれば「日本のサッチモ」というところでしょうか?

「いえいえ。私はにっちもさっちも。にっちもの方でしてね……」

トランペットの弁は三つ。全身で息を吹き込み、これを操作して何と三オクターブ半の広い音域の旋律を奏でます。まさに音の魔術師です。

「昨日でも明日でもなく、今日、いい音を出すことが生きているあかしです」と言いながら「最近ね、昔よりいい音が出るような気がするんですよ」と、うれしそうに少年のような表情を見せました。

読売新聞記者・寺村  敏
カメラ 水谷 昭士