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No.66  川田 太三(かわた たいぞう)

野球留学がゴルフで実る
世界のルール委員、コース設計も

ゴルフファンなら、NHKなどに出演している川田さんの名解説はおなじみです。日本オープン、全米オープン、マスターズなどの中継で、明快な語り口の川田さんの解説を聞いてゴルフの神髄を知ったと言う人は大勢います。

本職は、スポーツ関連事業会社「T&Kインターナショナル」社の代表取締役です。港区芝浦にある本社でお話を伺いました。

─お住まいは渋谷区ですが荒川育ちですね。

母方の祖父が大出常三朗で、荒川区議、区議会議長を長年つとめた人です。私も昭和四十八年、二十八歳まで旧三河島八丁目(現在荒川二丁目)に住んでいました。すぐ隣が仁風会館保育園で、塀の下の破れ目から通っていました。小学校からは立教です。

─立教高校では野球の選手だったとか。

捕手でした。昭和三十七年卒業時に南千住に本拠のあった大毎オリオンズ(現千葉ロッテ)から入団の誘いがあったのです。法政二高の柴田が巨人に入った年です。でも私は誘いを断り、オハイオ州立大の奨学金を得て二年間アメリカに野球留学しました。何しろ野球しかない時代で、保育園の友達でその後高校球界で大活躍した人も結構いますよ。

─留学中はどうでしたか。

向こうでもドジャースから誘いがあって、実際ドジャースのユニフォームを着て公式試合前の練習に参加したりしましたが、入団は断りました。連中にはかなわないことがわかっていましたから。もしあの時入団していたら、日本人大リーガー第一号になっていたかもしれません。

帰国後は?

三十九年に帰国して立教大に入り、東京五輪では水泳関係の通訳をやりました。ショランダーなど名選手と仲良くなりましたよ。父(友之氏、ロス五輪の自由形選手)が日本水泳連盟常任理事でした。

─ゴルフの方は?

帰国してから始めました。上達が早く、たちまちシングルになり、一年目で7、二年目で4、三年目で2。でもプロにはならず、サラリーマンになりました。町屋にあった日本建鉄に入社したのです。そのころ日暮里駅の上のゴルフ練習揚によく行きました。

─会社を始められたのは?

三十歳の時です。三十五歳からは一人立ちするんだと決めていました。最初の仕事は、当時増えてきたゴルフ、アメフト、サッカーなど外国のスポーツ中枢番組の翻訳です。徹夜の毎日でした。

─留学が役立ったのですね。

何しろ、ハットトリックを「帽子の魔術」などと訳す人もいたころでした。今会社は各種スポーツイベントやゴルフ場設計などさまざまな事業を展開していまして、スタッフも四十人程います。すでに全国に十五のゴルフ揚をつくりました。東京都が岡本綾子に依頼した13号埋立地の若洲ゴルフ場の設計もやっています。

─ゴルフ解説はいつから?

二十年前、日本アレビのプロデューサーから、解説をやってみないかといわれて始めたのが最初です。年間十五本もやった年もありましたが、最近は減らしております。

川田さんは、アジア大会ゴルフ監督、世界選手権団長などをつとめ、現在、日本ゴルフ協会総務委員、強化委員、ルール委員、英セント・アンドリユースの世界のゴルフルールを決める十五人の委員の一人でもあります。

日本人ゴルファーについて「言いたいことはたくさんありますが、まず、紳士、淑女のスポーツであるという原点を忘れているのは困ります」

五十歳。スポーツを愛する人の重みのある一言です。

ご家族は、夫人と、アメリカ留学中の娘さん二人です。

読売新聞編集委員・平田明隆
カメラ・水谷昭士