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No.53  本山 唯雄(もとやま ただお)

画と教育の道を一筋に
芸術家村だった日暮里に愛着

日暮里サニーホールを訪れると、ホワイエにひときわ目立って油彩画が飾られています。このF百五十号の題名は「トルソ」。本山画伯が描いた大作です。

手前に三人の裸の少女がひざを抱えて座り、その後方にも別の方向を向いた少女が三人。ブラウン、イエローオーカーなどを基本にした色調は「落ちついていて温かい」不思議な魅力をたたえています。この作品について質問すると次のような答えが返ってきました。

「二年前の夏の作品です。五月ごろから案を練り、制作期間は二か月ぐらいでしょうか。夏から秋にかけて大きな作品を描く生活が続いてまして。これもその一つです」

一水会会員、日展評議員、東北芸術工科大学(芸術学部美術斜)教授、東京学芸大学名誉教授、六十五歳─。こう聞くと何となく「大画伯」を連想しますが、お会いしてみると「何かが違う」という感じがします。それは「大好きな絵は描きたかったけれど何かに拘束される画家にはなりたくなかった」と考え、そのとおりの道を歩み続けている点です。

生まれは田端。「絵は好きでした。小学生のころ、隣の机に画家の小杉放庵さんの息子の三郎君がいましてね。ある日、彼の家を訪ねたのですよ。幾つもの部屋が画室に当てられ、アトリエがある。ここで画家の生活を見ましてね。この道を志しました」

東京美術学校・油画斜に進み、安井教室に学んで卒業。「それから今で亭えばフリー・アルバイター生活が始まりました。染色工揚の彩色、電柱の看板描き。いろいろやりました。手に職があるでしょ。結構な収入を得ましてね」

やがて慶応高校の非常勤講師、続いて学芸大助教授から教授(この時代に付属小学校長を兼任)になりますが、教育者と画家という道に折り合いをつけながら仕事を続けています。

洋画家。作品は具象。人体、風景、静物など、本山さんは珍しいオールラウンド・プレーヤーですが、「絵画の基本は裸体を描くこと」という考え方が流れています。「人体は、その骨格、筋肉すべてを考えながら描くことになります。風景を描くにしても基本は同じで、山にも骨格がある。人体はすべてに当てはまるのですよ。人の肌の色がすべての色の基本だとも思っています。血液が流れている温かさというのでしょうか」

現在の住まいは西日暮里四丁目。生まれた田端にしても日暮里にしても、そこに独特の誇りを持っている印象を受けます。

「昔はね、このあたりは芸術家村だったのですよ。『新しき村』運動とも連動していたのでしょう。渡辺町と呼ばれていたあたりは、石井柏亭画伯を支えた人の名前をとったもので、町営の郵便局や幼椎園までありました。今は、さしずめ進学塾村というところでしょうか。世の中は変わります」

本山さんは「私の地誌」と題した随想の中で次のように書いています。

「昨年、田端の小学校を、卒業以来初めて訪ねた。戦争で校舎も変わり、区画も家並も昔の俤(おもかげ)はなかった。ただし屋上からながめると、大地の切通しや、それが不忍通りの谷へ落ち、本郷台の隆起へつながり小石川へとつつくこの地勢は、まさしく幼いころの記憶にあるそれであり、もっと昔から少しも変わっていないはずの、いわゆる『心ににじんでくる私の山野』であった」

読売新聞記者・寺村  敏
カメラ・水谷 昭士