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No.50  立川 義明(たてかわ よしあき)

宮大工の血筋…"諏訪"の縁
富士見坂とヒゲを愛し30年

谷中に近い西日暮里三丁目の閑静な高台。南泉寺の前、うっかり見過ごしそうな木戸の奥に、女人具象彫刻で知られた立川さんの住まいとアトリエがありました。このあたりは上野が近いせいか昔から作家や芸術家が集まっているところです。

─いつ頃からお住まいですか。

三十年になります。ここは、私が師事した彫刻の藤井浩佑先生の屋敷があった場所です。先生は戦災で焼け出され、戻ってこなかったのです。三百坪ほどあった敷地の一部に私が家を建てました。近くに諏方神社がありますが、私は長野県の諏訪出身なんです。

─面白い緑ですね。

しかも代々宮大工で、諏訪の諏訪大社と縁が深いのです。曽祖父が分家して本家ではないのですが、数えれば、私は七代目に当たります。二代目立川和四郎富昌が、百五十年ほど前、諏訪大社に彫った鶏の親子の彫刻が、現在重要文化財になっています。今年は酉(とり)年というわけで、最近地元紙が写真に撮って大きく紹介していました。

─宮大工が彫ったのですか。

先祖が江戸に出て、彫り物を学び、「立川(たてかわ)流」の名をもらったのです。江戸では大工と彫刻は分業だったのですが、地方では両方を兼ねていたのですね。幸田露伴の「五重塔」に、立川流の名が出てきます。

─それで彫刻家になられた?

まあ、そういう環境はあったのですが、今の仕事は宮大工と全然つながりはありません。

─東京美術学校(現東京芸大)に行かれたのですね。
卒業が真珠湾攻撃の昭和十六年、すぐ兵隊に取られて、千葉・習志野などに配属になりました。外地へ行くこともなく、終戦を迎えたのですが、同じ藤井先生の弟子の友人が戦死しました。

─ひげがよくお似合いですね。

ああこれですか。昭和三十三年に藤井先生が亡くなられたのですが、そのころ無精髭を生やしていたら、反抗精神の表れだ、生意気だなんていわれたのです。カストロが出てきた頃だったのです。まあ、酒の肴にでもなれば、と思ってそのままのばして置いたのですが、今日まで続いてしまったのです。ところが、いい意味で、このひげが恩師藤井浩佑先生のスタイルを抜け出そうという自分の芸術の支えとなりました。

─由緒ありげなアトリエですね。

女房の里が岡谷で、そこにあった土蔵を持ってきたのです。これはその籾倉です。だから、百年いや二百年くらい経っているでしょう。

─荒川へはどんな思いを。

家の近くの富士見坂からの富士山のながめを、四年前からスケッチしています。もう三十枚くらいになりましたか。年々高い建物が立って見えにくくなっていく様子がよくわかります。それでも、冬の寒い月、赤い夕空に映える富士山のシルエットはなかなかドラマティックです。富士見坂と対話をしていると、荒川に住んでいる冥利を感じます。東京には「富士見」の地名はいくつかありますが、富士山が見えるところはここくらい、と聞いています。昔は、四本のお化け煙突、それに筑波山も見えたのですよ。

第一回日展会員賞受賞、日展審査員、日展評議員という彫刻の世界でそうそうたる経歴をもつ立川さんは、今年七十五歳。張りのある若々しい声。その響きの中に、古い伝統を愛しながらも、常に時代をしっかり刻んできた気迫を感じました。

読売新聞編集委員・平田明隆
カメラ・水谷昭士