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No.46  池田 光夫(いけだ みつお)

演歌の心を持つ演奏家
「日本のタンゴも大切に」

タンゴの歯切れ良さは、バンドネオンによって生まれます。このバンドネオン演奏の第一人者として長い間、活動を続けています。

「楽器と出会って四十四年になります。戦後間もなくの昭和二十三年でした。それまでギターやピアノを演奏していたのですが、当時は楽器を二つか三つ演奏出来なくちゃだめでしてね。初めてバンドネオンの音を聴いて、すばらしい響きに驚きました」

何十年も連れ添った愛器をひざの上に置いて、そこに優しいまなざしを投げかけながら、こう話し始めました。

「楽器を手に入れてからが大変でした。まず演奏法が分からない。右に三十八、左に三十三のボタンがある。これを操作して約五オクターブの音を出すのですが、独習して何とか音階が弾けるようになりました」

まず伴薫&楽団メキシカーナに所属、二年後には自分の楽団を率い、やがてロス・アミーゴスのリーダーとして脚光を浴びることになります。

タンゴには、アルゼンチン・タンゴ、コンチネンタル(ヨーロッパ)・タンゴがあり、「どちらも大好き」。でも「もう一つ忘れちゃいけません。日本のタンゴがありますよ」と言います。

「レパートリーは何曲ぐらい?」と尋ねると「さあ、五百かな、いや八百。そう、いろいろ合わせると千曲以上あるでしょうね。いずれにしても、トゥララン・ツァン・ツァンという、あの独特のリズムの心地良さがタンゴの魅力で、本当に日本人の感覚、感性に合うのですよ」

荒川区日暮里三丁目の生まれ。二日小と真土小に学び、その後、戦火に家を焼かれて高砂へ転居することになりますが、「荒川土手や寛永寺、谷中墓地で遊びました。水泳は、もちろん荒川で、橋から橋まで四㌔ぐらい泳いだものです。今は狛江に住んでいますが、先日、育った町に行ったら、近所のおばあちゃんが懐かしがってくれましてね。ああ故郷はいいもんだなあと思いました。少年時代はおとなしい子でした。ハーモニカが好きで、子供会で独奏したものです」

いま六十五歳。四十数年前の思い出になると話が止まりません。

さて再びタンゴの話に─

好きな曲として、アルゼンチン・タンゴでは「夢のすべて」「バンドネオンの嘆き」、ヨーロッパ・タンゴでは「夜のタンゴ」「青空」、そして日本のタンゴでは「ある雨の午後」「赤い靴のタンゴ」を挙げました。

日暮里サニー・ホールで開かれている「タンゴ・エン・ニッポリ」には十二月十七日に出演しますが、お得意のレパートリーは「ラ・クンパルシータ」「カミニート」「エル・チョクロ」「エル・ウラカン(台風)」など。「これだけは演奏しないと、お客さんが満足してくれません」

「演歌の心を持つ演奏家」と言われます。「津軽海峡冬景色」などの演歌も演奏しますが、粘りのある旋律と、歯切れ良いリズムの組み合わせが大きな魅力になっているようです。

アルゼンチンに出掛けること数回。国内ではヴィヴァルデイ「四季」などのクラシックや武満徹の現代音楽も演奏、軽井沢音楽祭出演など、数多くの足跡を残してきましたが、タンゴに対する思いは、「若い人にタンゴを聴いてほしいですね。そのために残る生涯を捧げたいと思っているのですよ」という言葉で表現されます。

インタビューを終えると、何曲か演奏してくれましたが、その時、手にしたバンドネオンは、時に大きく、時にささやくように、生き生きと呼吸をしていました。

読売新聞記者・寺村  敏
カメラ・水谷 昭士