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No.42  尾藤 イサオ(びとう いさお)

芸人・歌手からミュージカルへ
「兄弟で銭湯へ行った懐かしい町」

「このあたりに来ると小学校五年のころを思い出すんですよ」

遠くを見るような目をして話し始めました。尾藤さんの中では時間が戻っているのでしょう。懐かしそうな表情をしながら─。

「四年生までは台東区にいましてね。そのあと第二日暮里小学校に通いました。また転校して駒形中学に進むことになるのですが、そのころの友達、その後に知り合った方々にも、今も何かあると応援していただいています」

父親は松柳亭鶴枝という芸名で「百面相」を見せる寄席芸人だったそうです。また母親は三味線の奏者でしたが、三歳の時に父を亡くし、兄に続いて尾藤さんも幼い時から芸人の世界に入りました。

「父の友人の師匠の下で修業しましてね。皿回しにナイフ投げ。それから今はほとんどなくなりましたが、ガソリンを含ませた布に火を付ける火炎バチ。くわえたバチに土びんを乗せる芸などですね。小学校の時から修業を始めて、高校時代まで奉公しました」

その高校時代は昭和三十年代。有楽町にあった日劇ではウエスタン・カーニバルが若者たちの心をとらえた持代で、功男少年も例にもれなかったようです。

「エルビス・プレスリーを聴いて、歌手になろうと決めたんです。『ハート・ブレーク・ホテル』ですね。それからもう一つ。曲芸の巡業でアメリカに行きまして、そこでサミー・デイビス・ジュニアのショーを見たのもきっかけです。歌って踊って、物真似もして芝居も演じちゃう。つまりショー・ビジネス、エンターテイナーの世界です」

早速、「ロカビリー曲芸」という新しいスタイルのショーを作り、やがて奉企の年季があけて歌手の世界に入ることになります。

三十八年にはウエスタン・カーニバルで「プレスリー賞」を受け、テレビにもレギュラー出演しましたが、やがてビートルズの登場で、ロカビリーの波は去り、グループ・サウンズの時代になります。

「その流れの中で新しく見つけたのがミュージカルの世界でした」

「夜明けの歌」に始まり、「ハムレット」「キャバレー」「ゴールデン・ボーイ」、そして「アニー」。五十五年には「ファニー・ガール」で菊田一夫演劇賞という栄誉ある賞を受けています。

以来、テレビドラマとミュージカルを中心にした舞台俳優として活躍しています。今年の出演は三作品で、新宿・シアターアプルの「スライス・オブ・サタデーナイト」(六月)は初の主演作とあって大張り切りです。そして「サウンド・オブ・ミュージック」「シティ・オブ・エンジェルス」。とくに「スライス─」は、尾藤さんが青春を過ごした一九六〇年代のロンドンを舞台にした作品です。

「歌っても演じても、いかにお客さんに楽しんでいただくかですね」

昔の芸名は鏡味(かがみ)鉄太郎。いまは別の世界に生きていますが「お客さん第一」という生き方は芸人だったころに身に付いたようです。

「ところで、ここに来ると故郷って気がしますね。昔は広いと思った路地が意外に狭かったりするでしょ。下町の夕闇の中の明かりっていいものです。子供のころは、兄弟で一本の手拭いを持って銭湯に行ったものでした。その手拭いが帰りに凍って棒のようになりまして」

下町に暮らした幼い日々を思い出しながら語る表情は、まるで少年のように輝いていました。

読売新聞記者・寺村 敏
カメラ・水谷 昭士