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No.41  三遊亭 好楽(さんゆうてい こうらく)

寄席に熱中した高校時代
楽しい荒川のマンション長屋

日本テレビ日曜夕方の「笑点」の大喜利メンバーとしておなじみの顔。当意即妙のやりとりで、みんなを楽しませてくれています。

両国永谷ホールでの「両国寄席」出演中、楽屋で話を伺いました。

─笑点出演はいつからですか。

昭和五十四年から四年間、それに六十二年から今日までず-っと。最初は水色の着物、今は、あのはでなピンクの着物、とても高座では着れませんが、カラーテレビ向けなんです。もっともあれはテレビ局の備品ですが。

─林家正蔵に弟子入りしたのですね。

ええ、四十一年、高校(文京区京華商業)卒業の翌年でした。林家九蔵の名で四十六年二つ目、五十六年真打ちになりました。

─いまは円楽門下。

五十七年に正蔵(彦六)が亡くなり、円楽門下にはいり、三遊亭好楽となりました。

─子供のころはどうでした。

大塚に住んでいました。八人兄弟の六番目。警察官だった父が六つの時に亡くなり、母親一人で切り盛り。おかずなんか、ちょっと油断していると、自分の分がなくなる。兄弟ゲンカが始まる。一つ五円のコロッケをよく買ってきたものです。ラジオの落語が面白くて、小学校の時分から、寝ながら一人でくすくす楽しんでました。映画もよく見たし、聞くもの見るもの何でも好きでした。それにスポーツ。中学時代はバスケット、高校でバレーボール。野球はず-っと。

─咄家(はなしか)になろうとおもったのは。

友だちが、寄席に行こうというので、ついて行ったのがやみつきになり、以来一人で池袋の寄席通い。いつも、一番前にすわっているので、覚えられてしまって。円楽の弟子になってやろうと思っていた時、今の鳳楽が一番弟子として入門したという新聞記事を見て、先を越された、と残念がったものです。そこへあるとき、ラジオから正蔵の人情咄が流れてきて、その声がすごく新鮮に聞こえ、私の師匠はこの人、と決めたのです。

─大塚からどちらへ?

所帯を持ってから、新宿、杉並など五つの区を転々と引っ越しました。引っ越す度に隣近所にそばなど配るのですが、「それナニ!」などと言われて、因ってしまったこともありました。東京には昔の人情味がなくなったのですかね。

─それから荒川に住むようになった。

荒川は、昔から咄家がよく住んでいましたので、ぜひ住んでみたいと、念願の地だったのです。西日暮里三丁目の富士見マンション、最上階の五階で、3LDK。今年九年目になります。冬なんか本当に富士山がよく見えるのです。広重の絵そっくりの。まだローンは残っていますが。

荒川はとても住みやすく、人情のあついのがうれしい。それでも私は"よそ者"なので、隣近所との付き合いには、できるだけつとめてきました。マンションには、弁護士先生なども住んでいるのですが、いまは、朝のあいさつから始まって、人間同士の波長がすっかり合っています。お祭りのときなんか、ドアは開けっ放し。くつやげたがずらっと並び、はみだすほど。にぎやかなものです。いうなれば「マンション長屋」です。そんなつながりを大切にして行きたいと思っています。

高座に上がるだけで、和気あいあいとした雰囲気になる好楽師匠。なかでも、人情咄に味わいのある芸風にいっそうみがきがかかっています。高座でも、テレビでも、マンションでも、その名のとおり、みんなに好かれる四十五歳です。

読売新聞編集委員・平田明隆
カメラ・水谷昭士