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No.40  冨田 均(とみた ひとし)

街を記録する"歩行家"
映画・テレビ制作から作家へ

〈私が「故郷」を発見したのは小学校六年のときだ。バスによる区内見学の最終地、西日暮里の小高い山の上にある諏方(すわ)神社の崖際で、初めて私はスケッチブックを片手にまじまじと故郷を眺める機会を得た)富田さんが最近、雑誌「東京人」に寄せた一文「喪山(もやま)」の書き出しです。

古地図、カメラなど七つ道具を持って、東京の街を歩き続けること三十余年、風景を拾い集める作家として知られる富田さんは、昭和二十一年、荒川車庫の真ん前にあった家に生まれ、尾久西小、荒川七中で学びました。作家活動の原点は、故郷荒川への愛着でした。

上野・不忍池近くの喫茶店で会いました。

─喪山ってなんですか。

上野から飛鳥山、赤羽へと続く武蔵台地の東端にあたる高台を私が高校生のときに勝手に命名したのです。「道潅山」を一生かかってこの名に変えたい。その欲望が、歩く人生の根っ子にあるのです。

─歩くとはどういうこと?

とにかく外に出る。歩くことそのものが生活なんです。二十歳代はじめに読んだ永井荷風の「日和下駄」がきっかけで、猛烈に歩き出した。昭和四十年代でしょう、街がどんどん変わっていく。

─それを記録した「東京徘徊」が最初の本ですね。

─東京は台地と台地、その間に挟まった谷に、坂があり、商店街が伸びている。風景を、私なりに百数十のタイプに分けて観察する。そこに、江戸からの歴史が重なる。その中に入っていくと、体がエキサイトしてくる。疲れが出てくる。疲れが大事なのです。

─コンクリートと、喧噪と、排気ガスと、人混みと、気になりませんか。

だからこそ興味が尽きないのです。愛惜の気持ちを持ちながら、次々と変わっていく街の風景を記憶し、記録する。人間の死をみとるのと同じ気持ちで。私は、地名や町並みの保存運動には加わりません。むしろ、自分の地名をつくればいいと思っています。

─荒川区については。

地勢からすると、川と山にはさまれたユニークな地です。江戸時代は、台地から眺める物見遊山の場でした。日暮里にある、月見寺、雪見寺、花見寺に名残をとどめています。荒川の人は、川には注目しますが、もっと「山水世界」としてとらえるといいのじゃないでしょうか。

─現在は巣鴨にお住まいですね。

荒川区は震災後、住民が急増したのですが、最近の人口減が気になります。やっぱり人がいないとだめです。故郷を離れて住むと、学校のOBが後輩に期待するように「がんばれ」と言いたくなります。

─少年持代は?

映画監督になりたかった。二十代で新宿を根城にアングラフィルムを五、六本つくり、「ガラスと鍵」という作品でモントリオールの国際映画祭優秀賞を受けました。テレビの制作もやり、それから、「早稲田文学」で立松和平らと作家活動へ移りました。

消えて行く東京の露地、歴史をとどめる政道、水辺、高台を、趣にまかせてひたすら歩く富田さんは、東京の本を五冊も書きました。歩くことを職業としているのは、広い世界で富田さんだけ。「登山家があるなら、歩行家があってもいいでしょう」。

インタービューが終わると、マガモの遊ぶ不忍池に目をやりながら、また歩きはじめました。

読売新聞編集委員・平田明隆
カメラ・水谷昭士