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No.38  皆川 重男(みながわ しげお)

歴史の転機を号外で保存
「昔ふり返れば明日をくよくよせず」

皆川さんにとって昨年は思い出深い年でした。一つは、65年間一途に収集した全国的に有名な新聞号外の「皆川コレクション展」が、3月、日暮里サニーホールで開かれたこと。もう一つは、11月、地域文化功労者として文部大臣表彰を受けたこと。荒川史談会幹事長、副会長などを25年勤め、文化財保護に貢献の功績も認められたものです。

─展示会は盛況でしたね。

「10日間で来場著名簿に署名した人だけで千人以上。大学教授など専門の研究者もずいぶん見えられました。日本テレビ、テレビ朝日も取材、放映し、局のプロデューサーも来て、ドラマの資料に号外を借りたいと依頼されました」

─号外収集の動機は?

「水道橋の東洋商業学校三年生の時の大正天皇崩御がきっかけでした。もともと一人で楽しめる歴史研究に興味を持っていたので、歴史のヤマ場に必ず発行される号外で昭和の歴史を保存しようと思い立ったのです。収集の苦労も大変でしたが、おかげで昭和13年発行の『日本蒐書家名簿』(日本古書通信)に当時の著名な作家、学者と並んで『号外蒐実家』として私の名も載ってますよ」

─その苦心談を一つ・・・。

「幸い区内にあった千住製紙に全国の古新聞が山と積まれていて、その中から号外をほこりまみれで深しました。もっとも会社の人に菓子折りを持って行って顔なじみになり、号外を選り分けておいてくれたので助かりました。また事件があると有楽町の新聞街に走り、売り切れた時など読んでいる人が捨てるまで後をつけてウサン臭く思われたりしましてね。神田の古本屋街も貴重な収集源で、原敬暗殺号外は、他にも収集家がいたためジャンケンで勝ってやっと入手できました」

─珍品も多いでしょうね。

「千住製紙から日露戦争当時の号外が500枚一塊りで出て来て、旅順陥落の赤刷り号外を発見した時は、うれしくて眠れないほどでした。戦後入手した大日本帝国憲法の官報号外は金粉の菊のご紋章がサン然と輝いてますし、椅玉の草加まで追いかけて拾った終戦直前にB29がまいたマリヤナ時報号外などいろいろありますよ。歴史関係では、天保年間初版の『江戸名所図会』全20冊を、神田の大屋書房で昭和36年に六千五百円の定価から粘りに粘って300円引かせて入手しました。今は50万円以上とか。しかし古本屋は号外だけでは売ってくれず昔の新聞を2年分まとめて買ったり、お金も相当使いました」

─時間を作るのも大変・・・。

「もともと家業がすし屋で、学校を出てから手伝っていたので時間の余裕はありました。今でも私、すしを握れるんですよ。また戦争中手伝っていた特定郵便局も、昭和20年に郵便局長になり35年間勧めましたが、今と違ってのんきだつたので助かりました」

皆川さんは明治43年生まれ、この2月で82歳になります。昔、郵便局の健康診断で肺が曇っているといわれたこともあります。吸いこんだほこりのせいでしょうが、今は色ツヤもよく健康そのもの。『一時は区内の郵便局長25人の四天王といわれたお酒のおかげ・・・』と笑います。"命から二番目に大切"な号外は区に寄贈、区では皆川さんの母校の瑞光小学校に保管しています。

─苦労が報われたのでは・・・

「何より歴史をやってきて本当によかった。人間は明日、明後日を考えるとくよくよしますが、昔を振り返っていると、そんなことありません」

文・真下 孝雄
カメラ・水谷 昭士