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No.36  玉川 豊(たまがわ ゆたか)

蓄音機で練習した浪曲
結成22年、出身学園へ慰問も

舞台いっぱいにぎやかに、和服姿の四人がギター、三味線をかかえ笑いをふりまく「玉川カルテット」。リーダーの玉川豊さんは、本名が茶間豊。聞くとだれもが、にこっとします。町屋に住んで十年になります。

─住み心地はいかがですか。

いいですね。気取らないところが。同じ下町でも、湯島に比べれば町屋の方がくらし向きも芸人向きです。

─お忙しそうですね。

このところ、おかげさまで仕事が忙しくなりました。自分でもわからないのですがボーイズものが少なくなったからでしょうか。でもあんまり毎日舞台だと、神経がおかしくなります。

─といいますと?

ステージに立つと全神経をつかうのです。使ってはいけない言葉なんかありまして。テレビでさえ最近はかなり過激なことをやってますが、舞台ではもっとすれすれのところまで行く。とくにきわどい話の時なんか最高に気をつかいます。その場の雰囲気でしゃべるものですから。

─結成何年になりますか。

今の四人のメンバーになってから二十二年になります。みんな浪曲上がりです。浪曲が下火になったとき、浪曲にお笑いを入れるといいんじゃないか、やってみよう、ということでスタートしました。

─長く続きましたね。けんかしませんか。

昔はよくもめました。テレビ出演で、おれはせりふがないとか。今はそんなこともなくなりました。「金もいらなきゃ、女もいらぬ。私はもう少し背がはしい」のせりふを柱にしてギャグを折々飛ばす、これが一番うけてます。ワンパターンと言う人もいますが、それやってほしいとお客さんに言われるのです。

─浪曲に入ったのは?

中学一年だったかな、川崎の新日本学園という施設にいたころ、慰問に来た玉川勝太郎の浪曲を聞いて、浪曲っていいなあと思ったのです。中学を卒業して電気屋に勤めましたが、どうしても浪曲をやりたくて、ある人を介して声のテストを受け、勝太郎に入門しました。十八歳でした。当時は、ラジオでも、浪曲学校だの天狗道場だの、浪曲をよくやっていました。蓄音機を買ってきて一生懸命覚えましたよ。宮尾たかしについて司会の勉強もしたのですが、それが今大変役に立っています。

─お生まれは?

昭和十四年、横浜で生まれました。六つのとき空襲で焼け出され、七つのとき父が亡くなり、恵まれない子どものための施設に預けられたわけです。

─たとえば。

今でも、五月五日には新日本学園の子供たちの慰問を続けてます。もう十四年になりますか。でも小さい子どもでしょう、浪曲はだめなんです。やっぱり手品とか百面相だとか、見るものでないと。そこで、われわれがスナックなどに出演した時にお客さんがくれたご祝儀をためておいて、それをギャラに当てて、演芸の人に慰問に行ってもらってます。

─子どものこととなると、いろいろ思いがあるのですね。

そう、自分もお世話になったから。恩返しまでは行きませんが・・・・・・。年に一度はいいことやろうかな、と。

日本の大衆芸能の原点でもある浪曲を、「玉カル」は、お笑いの形で守り続けています。呼吸もぴったりのメンバー四人は体の続く限り頑張ります、とうれしい言葉をリーダーは残してくれました。

読売新聞編集委員・平田明隆
カメラ・水谷昭士