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No.35  式守 錦之助(しきもり きんのすけ)

軍配50年、いま千秋楽
3回も取直した霧島―水戸泉戦

式守錦之助さんは伊勢ケ浜部屋(親方は元大関清国)付きの三役格行司で、本名は浦本守、荒川区在住二十年。今年十二月に満六十五歳の定年を迎えます。最後の場所となる九州場所を前に、東日暮里のご自宅をたずねました。力士の間に入って勝負を裁く行司さん、きらびやかな装束の陰の苦労話など伺いました。

─相撲界に入られたのは?

小さい頃から相撲好きで、声に自信があったので呼び出しになろうと思っていたところへ、昭和十六年七月、地元の北海道・旭川で巡業があり勧進元にお願いして入れてもらいました。十五歳でした。呼び出しの人たちと五日間一緒にいたのですが、人の勧めもあって浦風部屋に預けられ、行司になりました。後に照国さんの伊勢ケ浜部屋に移りました。

─すぐに土俵へ?

いや、兄弟子の世話ばかりやって、正式に採用になったのは一年以上もたった昭和十八年一月。前相撲からやるのですが、これが午前二時から始まるのです。当時は一年二場所、十三日制でした。家が北海道ですから帰りたくとも帰れない。小間使いの毎日で、五年に一回は、やめたいと思いましたね。

─行司の階級はどうなってますか。

木村庄之助、式守伊之助が立行司で、あと、三役格、幕内、十両…と、力士とほぼ同じです。軍配の房と装束の飾りの色で見分けられます。庄之助は紫、伊之助はそれに白が入り、三役は朱、幕内は紅白、十両は青白、幕下以下は緑か黒です。三役以上は上草履をはけますが、幕内、十両は足袋、幕下以下ははだしです。立行司は短刀を差します。間違ったら責任を取る、という意味です。抜くようなことはありませんが。

─待遇は?

昔は十両格にならないと月給がもらえない、だから所帯も持てなかったのです。私は二十年かかると思っていましたが、案外早く、昭和三十年に十両格になって月給一万八千円もらい、その年に結婚しました。装束を買うと、ちょうど同じくらいしました。

─行司は、土俵以外の仕事も多いのでしょう。

決まり手を決めたり、場内放送をしたり、番付を相漢字で書き、その日の勝負を記録し、割場(わりば)といって審判部で決めた取り組みを作成したり、巡業の時は輸送手段から宿の手配など、まあいろいろな仕事があります。相撲宇が書けなくてやめた行司さんもいます。

─行司は、土俵上では常に向正面の側にいますね。

正面に尻を向けないということなんですが、いつも決まった側にいれは東西を間違えることがない、という意味もあるのです。

─印象に残った一番は?

昭和六十二年五月場所でしたか、霧島-水戸泉戦です。三回取り直し、四回目に水戸泉が勝ったんですが、それも微妙な勝負でした。

─近ごろ横綱が弱いといわれますが、昔はどうでしたか。

双葉山なんか、強くて勝つのが当たり前。だからお客さんは最後まで見ないで帰ったくらいです。一年二場所、みんな貢録がありました。年六場所のいまのお相撲さんは、病気やけがを直し切れぬまま土俵に上がるでしょう、羽黒山なんか、アキレス腱を切って一年も休みましたよ。でも、今でも、稽古する力士はけがをしませんね。

土俵一筋五十年、引退の感想を伺うと、「お役がやっと終わりました」と、浦本さんは、血色のいい、さばさばした表情でした。

読売新聞編集委員・平田明隆
カメラ・水谷昭士