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No.33  植村 和堂(うえむら わどう)

震災で離散、文検に合格
清和書道会40年余、人柄にじむ作品

長年、日本の書道界をリードしてきた植村さんは今年八十五歳。自ら主宰する「清和書道会」は、四十年余の歴史を重ね、月刊の書道研究誌「清和」が四六七号を数えました。いまや門人、準門人合わせてざっと七百人、荒川区在住の人もおおぜい指導を受けております。西日暮里のご自宅を訪ねました。

─近頃、書道への人気が高いようで。

「一口に書道人口五百万といわれておりますが、これは、戦前、戦後を通じて空前の数でしょうね。特に女性が多くて八割から九割、それに年配者が増えてます。戦前と比ベると質の方が今一つですが」

─なぜでしょう。

「ヒマとカネができたからでしょう。だれだって毛筆できれいな字が書ければ楽しいし気持ちがいい。ペンより筆のほうが奥ゆかしい。それに教養。座敷に掛けてある書が読めるか読めないか、ずいぶん違いますから。昔は、書はその人の人格の一つでした」

─書道展への入選を励みにしている人が多いようです。

「大きな展覧会は毎日書道展と読売書法展。私は戦後すぐから毎日新聞を通じて書道の普及に力を入れました」

─書道を始めたのは?

「私は明治三十九年日本橋馬喰町の生まれ、父は文具商でした。子供の頃から習字が好きで、開成に入学した十二歳のころ、父の友人で七里徳三郎という人から父宛に来る巻紙の手紙の字に魅了されて、これを広げて何度も写し書きをやっていました。子どもだから字がわからないのですが、何度も書いているうちに読めるようになったのですね。そのうち、ちゃんと習ったほうがいい、ということになり、小野鵞堂の本を求め、通信教育を受け、十六歳で相沢春洋先生に師事して本格的に書道の道に入りました」

─大正十二年の大震災。

「一家離散です。相沢先生の紹介で大阪の益田石華先生のもとに身を寄せ、三年間書道誌の編集を手伝い、東京に戻って看板をかけて書道教授を始めたが生活が苦しい。昭和四年、二十三歳で文部省習字科検定試験(文検)を受けていっペんでパスしました。本試験に残ったのは全国で五、六十人、うち東京地区で合格したのは二人でした。泉岳寺わきの高輪商業で専任の教師になり、月給八十円。当時東大卒でも五十円でした。校主排斥運動をしてクビになり、仕方なく校門近くの義士焼き屋の建物で授業をしたり・・・・・・当時の生徒が、立派な経営者になって今も遊びにきます」

─荒川区にお住まいになったのは?

「浅草女子商業などで講師をやりながら、昭和十一年から本郷台町で書道教室を開いていましたが、戦災で焼け、住むところがなくて困っていた時、たまたま歯医者の待合室で会った人から話があって、今の住まいを買いました。開成でも教えてましたので、学校に近くて好都合でした」
明治、大正、昭和、平成を生きた植村さんは、時代時代で、海軍軍令部の書記、大阪で銀行員、たび重なる入院、療養、終戦直前の入隊、「写経の事典」など数多くの出版、と、まさに波乱、多彩の人生でした。昨年秋、七回目の午(うま)年を記念して「和堂七午作品」展が開かれました。作品の流麗な墨跡に、時代の激動をさらさらと受け流してきた柔和なお人柄がにじみ出て、味わい深いものを感じました。大変ご壮健で、毎年海外旅行は欠かさず、これからもまだまだご活躍されることでしょう。

読売新聞編集委員・平田明隆
カメラ・水谷昭士