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No.32  平野 千里(ひらの せんり)

40歳で初めて絵筆持つ
父に反発、ローマ修業20年

平野千里さんは、日本の伝統工芸「木彫彩色」の第一人者として知られる平野富山さんの次男で、二年前亡くなった富山さんの跡を継いで、伝統の灯を守っています。西日暮里五丁目にある自宅工房を訪ねました。

-玄関を入ると、いい木の香がしますね.。

「彫刻に使うクスノキです。木場で買ってくるのですが、十年、二十年と乾燥させたものです。それでもまだ不十分で、制作中にも作品の中をくり抜くなどして、乾燥には気をつけています。ひびが入りますから」

-展覧会の準備は、いかがですか。

「今年十一月に大阪・心斎橋の大丸で開きます。最初《親子展》という話でしたが、個展にしました。見る方が、親子の作品を比べられる方に目が行ってしまうのも何ですから」

出展作品のひとつ「地蔵菩薩像」を見せてくれました。

極彩色の衣装をまとい、化粧が施された美しいお地蔵さんです。

-ところで、ずっとローマにいらしてたとか。

「ええ。一九六八年から八八年まで二十年間、ローマの美術学校『アカデミア』で彫刻を学び、有名な芸術家ファツィーニに付きました。イタリアは具象派彫刻の先達ですから」

-きっかけは?

「小石川高校在学中は、ご多分にもれず、東大受験なんて考えてましたが、あきらめて、二十歳でローマヘ行きました。おやじに反発して、なにか芸術的に深いものを求めてました。サラリーマンにだけはなりたくなかったのです。勘当同然でした」

-二十年後ひょっこりと帰国して父富山の工房に入られた。

「誰でもが楽しめる彫刻、美しい作品にひかれまして。四十歳にしてはじめて絵筆を持ちました。ところが一年もせずに父をなくしたのです。八人いる父の弟子の方々の力添えもあって、うまくバドンタッチできました」

-西洋と東洋との違いは?

「ローマでは石膏塑像の裸婦でしたが、彫刻では、人体は基本でして、これが一番難しい。仏像を彫ることにも通じます」

-荒川生まれ、荒川育ちですね。

「そうです。でも、荒川区とは、これもひょんなことから密接なつながりができまして。平成元年六月のある日、父が亡くなった直後でしたが、通りかかった荒川区地域振興公社(ACC)の職員の方が、私の家の前の彫刻を見て家に入ってこられたのです。荒川にもそういう人がいたのか、ぜひ展覧会を、ということになり、翌年の十月に日暮里サニーホールで、父の作品七十一点を集め、遺作展を開いてもらいました。なかなかの評判で、そのさい『鏡獅子』を区に寄贈しました。いま区長室に飾られているそうです」

木彫界の重鎮、平櫛田中(一八七二-一九七九)の作品の九割の彩色を担当した、という平野富山の遺産をしっかりと受け継いだ千里さんは今年四十三歳、身に付けた西洋彫刻のセンスを生かして、日本の伝統芸術に、新しい息吹を注いでくれることでしょう。

文・平田明隆