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No.31  悠玄亭 玉介(ゆうげんてい たますけ)

一怒一老、欲も酒も適量
ひいき筋に超大物ずらり

入院先の下谷病院(台東区・根岸)を訪ねました。個室のベッドに正座して迎えてくれたお顔はつやつや、目が輝く八十四歳。

「脱腸なんですよ」

病名まで昔懐かしい感じです。

「生まれてから今日まで三万六百六十四日。働く意欲はありますよ。人間は、気力、体力、能力、努力、運力の五つの力が備わっています。今体力に欠ける点がありますが、気力は十分です。もう八十四歳、といってしまえばおしまい。まだ八十四歳なんです」

-支えてきたのは何ですか。

「一怒一老といいまして、怒らないことですね。怒りは無知、笑いは悟り、悟らないから苦労するのです。苦を修行と思えばいい。患うのは、心に串が刺さっているのですよ。他人をねたむのがよくない。人間、欲は必要で、食欲、性欲、金欲がないのはバカ、だけれど欲張りなのはいけない。欲にも程度があることを知らないといけません」

-お酒のほうは?

「朝から飲みますよ。でも人それぞれ適量というものがあって、これもオーバーしちゃいけません。百薬の長といいますが、冠婚葬祭はみんなお酒ですよ。うれしいときにはぱっぱっと飲むから、はっぱ六十四、悲しいときにしくしく飲むから、しく三十六、これを足して百。四苦八苦といいますが、しく三十六、はっく七十二、これを足すと百八つの煩悩(ぼんのう)」

-長い間お座敷でお仕事をしてきて、昔と今とではどうです。

「昔は味わいがありました。お客様は自分の金で遊ぶんだから、ほんとうの客です。おい玉介、今から二次会で芸者呼んでやる、とかいってくれた。今は会社で払うんだから、来るときから帰るときまで決まっている。文明化したので世の中味気がなくなってきたのですかね。イエスかノーか、どっちかなんだな、今は。昔は怒ることを、腹が立つ、といった。今は、頭にくる。腹に納めることをしない。すぐトサカに来てしまう」

-しかし師匠は時代とともに生きてさましたね。

「そう、昔は昔は、とばっかりいっておれない。時代に突っ掛かっていかないと、おぼれちゃうから。それを悟って、今日まで来ました。終戦直後銀座で料理屋やり、やめて東銀座にバー出して。ホステスに食われてやめちゃって。その後は上野で料理屋。向島で芸者屋をやったこともあるし、赤ちょうちんをやったこともある。巡り巡って、また幇間(ほうかん)になったんですよ。人生ドラマだから過去にはこだわりませんが」

-幇間になられたのは。

「私は最初は歌舞伎の声色使いでした。それから咄家(はなしか)を八年やって、常磐津の師匠から踊りの師匠になり、昭和十年に太鼓持ち、つまり幇間になりました。そのころ幇間は全国に四百七十人ほど。どこの花柳界にもいました。いまは本当の幇間は二人になりました。(もう一人は七十九歳になる桜川善平さん)。一門に弟子はいますが、まだ幇間とはいえません」

玉介師匠をひいきにした人を伺ったら、皇族、歴代総理、大物政治家、実業界のリーダーの名がずらり並びました。

-幇間というのは。

「宴会の演出者、司会者なのです。品がなくてはならない。私の顔は上半分が河野一郎さん、下が岸信介、耳が佐藤栄作さんといわれてますよ。幇間というのは、字にあるとおり、間が大切です。間がない人は間抜け。それに目。話中に目をそらす人はダメ」

-お子さんは。

「息子三人。芸人にはなりませんでした。戦後東日暮里に引っ越して以来、荒川区に住んでます」

文・平田明隆